2020ヨコハマトリエンナーレ 2020年7月3日から10月11日まで 2020ヨコハマトリエンナーレ 2020ヨコハマトリエンナーレ

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AfterGlow

光に導かれて――クラゲ、GFP、そして思いがけぬノーベル賞への道

下村脩、下村幸、ジョン・H・ブリネガー

目次

献呈の辞 ⅴ
序文 ⅶ

プロローグ 1
第1章 幼少期:満州、佐世保、そして開戦 5
1.1 福知山から佐世保へ 5
1.2 下村家の家風 8
1.3 満州にて 12
1.4 佐世保再び 15
1.5 大阪にて 20

第2章 祖国が戦火に巻き込まれる:大村海軍航空廠と原子力爆弾 23
2.1 諫早中学校で学徒動員 24

たった1日先の運命さえも予想できないような不安定な状況で、学校での勉強をどうするかなんて誰も考えていなかったのだろう。だから私は毎日、稼働し始める前の工場に行った。そしてもし何もやることが見つからなかったら、と言ってもそんなことは頻繁にあったが、よく近くのサツマイモ畑の中で寝転がって、大きな隊形を組んだB-29爆撃機の群が東に向かって、多良岳のはるか上空を飛んでいくのを見ていた。秋の青空を背景に銀色に輝くB-29爆撃機は、見ていて美しかった。爆撃隊が通り過ぎてから10分ほどした後に、有明湾の対岸にある大牟田工業地帯から黒い煙が上がるのをよく目撃した。そこで起きているであろう大惨事の様子はただ想像することしかできなかった。

2.2 長崎の原爆 27

北から南へ、ここから数十マイル(15キロくらい)離れた長崎に向かって一機のB-29爆撃機が飛んでいるのを見て、いつもとは違う飛行ルートだったので不思議に思った。その爆撃機から2、3個のパラシュートが落とされ、まばらな銃声が数発聞こえた。じっと目を凝らしてパラシュートを見ていたが、人がぶら下がっているのは見えなかった。そして数分もしないうちに、別のB-29爆撃機が同じルートを辿って最初の爆撃機を追いかけていたところ、空襲警報解除のサイレンが鳴り響いた。
 私たちは作業を再開するつもりで工場の中に戻った。椅子に腰を下ろした瞬間、工場の小さな窓から入ってきた強烈な閃光が私たちを襲った。30秒ほど、眩しさのあまり何も見えなくなった。そして、閃光から40秒ほどたった後だっただろうか、大きな音が聞こえて、急激な気圧の変化を感じた。どこか近くで大きな爆発が起きたに違いなかったが、それがどこなのかはその時はまだわからなかった。

空にはみるみるうちに暗雲が立ち込めてきて、私が工場を出て帰路に就いたころには霧雨が降り始めていた。灰と水、そして放射性降下物が混ざった黒い雨だった。1時間後、家に着いたときには白かったシャツは完全に灰色に染まっていた。祖母は私を見るや否や汚れを落とせるように風呂を沸かしてくれた。黒い雨の放射性降下物のせいで放射能中毒になってしまうところだったのを、あの風呂のおかげで免れたのかもしれない。

2.3 戦争の後:手探りの未来 29
2.4 戦争の後:失望 32

第3章 もがきながらの学び:長崎、名古屋、そしてルシフェリン(1948-57) 35
3.1 旧制長崎医科大学附属薬学専門部と長崎大学 35
3.2 平田研究室とウミホタルのルシフェリン 41

平田研究室での初日、平田(義正)教授は大きな真空デシケーターをどこからか持ってきて、「ここにあるのは乾燥ウミホタルだ」と言った。ゴマ粒大の甲殻類が入っていた。そして教授は、ルシフェリンという有機化合物とルシフェラーゼという酵素の反応によってウミホタルが発光すること、ルシフェリンが極めて不安定な物質で酸素があると分解してしまうこと、米プリンストン大学のニュートン・ハーベイ教授がルシフェリンを精製しようと過去20年間努力してきたものの、構造の研究ができるほどの純度の高いルシフェリンを得られていないことを説明した。ハーベイ教授は1916年にハネムーンで来日し、ウミホタルが生物発光のいい研究対象だと考えた。以来、教授は日本から入手できる試料を使って研究を続けていた。

3.3 予想外の成功:ルシフェリンの結晶 46

どんなに頑張ってもルシフェリンの結晶を得ることができず、私はルシフェリンの抽出と精製を一ヶ月に一度のペースで続けていた。しかし1956年の2月のある寒い日、偶然ルシフェリンを結晶化できた。

その前夜、私はいつもようにルシフェリンの結晶化に挑戦していて、精製したルシフェリンはまだ少し残っていたものの、夜10時ごろには実験のアイデアも尽きてしまった。そこで残ったルシフェリンはアミノ酸分析に利用することにした。試料に同量の濃塩酸を加えた。黄色の試料は瞬時に深い赤色に変わった。まだオーブンの準備ができていなかったので、試料の加熱は翌朝にしようと考え、深い赤色の溶液を棚に置いたまま、帰宅した。翌朝、研究室に戻ると溶液は無色になっていた。試料の加水分解が起こったかと思ったが、よく見ると試験管の底に黒い沈殿物がほんのわずか溜まっていることに気付いた。顕微鏡で見ると、この沈殿物が赤い針状の結晶であることが観察できた。

ルシフェリンの結晶化の成功は、偶然の産物だった。しかし、プリンストン大学の研究者らができなかったことを成し遂げたことで、終戦以来暗い先行きしか思い描けずにいたのが、希望が芽生えた。あまりにも嬉しくて、数日間眠ることができなかった。だがおそらく、この時に得た最も大きな収穫はどんな困難でも努力すればいずれ解決できるという自信がついたことだろう。

第4章 渡米と帰国:結婚、プリンストン大学、そしてイクオリンとGFPの発見 51

平田研は、とてもいい雰囲気の素晴らしい研究室だったと記憶している。誰かに何かを正式に教えてもらうということはなかったが、周囲の人を観察することで多くのことを学び、そこから自分でさまざまな技術を生み出すことができた。たった一度だけ、平田教授がアドバイスをくれたことがあった。「下村さん、質量分析でわかるのはおおよその分子量ではなく、正確な分子量なのだ」。だがどんな状況で教授がこのような指導をしてくれたのかはもう忘れてしまった。

4.1 明美との結婚:日本からの出発 53

1960年8月27日、私は200人以上のフルブライト奨学生とともに横浜で定期船の氷川丸に乗船し、シアトルに向かうことになった。その日は私の32歳の誕生日だった。そして結婚したばかりだった。氷川丸の最後の北米航路シアトル線の航海でもあったため、埠頭は見送りの人で埋め尽くされていた(氷川丸は30年前に初めてシアトルへ航海し、戦時中にほかの姉妹船は破壊されてしまったものの病院船として戦火をくぐりぬけた)。私の新妻、妻の母、そして友人たちが見送りの人たちの中にいた。船の乗客と埠頭の人たちを何千もの華やかな色のテープが繋いでいた。船が動き始めると無数のテープが切れていき、海の中に落ちていく色鮮やかな光景は、一生忘れられない。

4.2 プリンストン大学へ 59

(フランク・F・)ジョンソン教授の部屋を初めて訪れた時、白い粉が入った小さなガラス瓶を見せられた。「これはオワンクラゲという発光クラゲの発光組織を凍結乾燥したもので、水と混ぜると発光するはずだ」と教授は説明した。一緒に暗室に行って試してみたが、光を確かめることはできなかった。それでも、教授はワシントン州のフライデー・ハーバーという港の海にオワンクラゲがたくさん生息していて、いかに美しく光っているかを熱く語った。そしてこのクラゲの発光の仕組みを研究することに興味はないかと聞いてきた。クラゲについては何も知らなかったが、また新たに発光生物の研究を始めたいと思っていたところだったので、「ぜひ取り組みたい」と答えた。そして翌月の6月にフライデー・ハーバーまで一緒に行くことになった。

4.3 フライデー・ハーバー 65
4.4 オワンクラゲ 71

オワンクラゲは実に大量にいた。早朝と夕方には、潮の満ち引きによって起きる潮流に乗って漂うクラゲが臨海実験所の桟橋の横を流れていった。私たちは比較的大きいクラゲを1つずつ、傷つけないように浅い網を使って慎重にすくい上げてはバケツの中に入れていった。オワンクラゲの標本はほぼ透明な半球型の傘のような形をしていて、外周に沿ってかすかに発光する線がある。平均的な標本は直径7-8センチメートルで、重さは約50グラムになる。
 オワンクラゲは刺激されると傘の縁に沿って光を放つので、暗闇の中で緑色の輪が光っているように見える。発光組織は縁に沿ってしか存在していないため、私たちは傘のヘリの部分を切り取って幅2-3ミリメートルの細長い切れ端を作り、これをリングと呼んだ。そしてこのリングを実験に使った。約30個のリングをガーゼの中で絞り、長時間弱い光を放ち続ける濁った液体を集めた。

私はよく、誰にも邪魔されないように夏の澄んだ空の下で海に漂う手漕ぎボートに乗って考え事をした。当時はフライデー・ハーバーの周りの海を行き交う船は少なく、また、手漕ぎボートはあらゆる動力付き船よりも航行が優先されたため、フェリーなどはいつも大きく迂回してくれた。だがうっかり居眠りをしてボートが潮に流されてしまうと、桟橋まで戻るためには長時間自分で漕がなければならなくなった。ある午後、ボートの上で突然ひらめいた。それは、「クラゲの発光にルシフェリンやルシフェラーゼが関わっていないとしても、何か別のたんぱく質がおそらくこの生物発光の反応に絡んでいるはずだ。それならば、そのたんぱく質の作用は周囲のpH(酸性度)の変化に影響を受けるはずだ」というごく単純なアイデアだった。

発光している溶液を流しに捨てた。するとすぐに流しの内側がいきなり青く明るく光った!流しの中には海水が流れ込んでいたので、海水がこの反応を引き起こしたに違いないと推測した。海水の成分はよく知られているため、この突然の発光はカルシウムイオンが引き起こしたのだとすぐに特定できた。ちょうどいいタイミングで流しの中に海水があったのは、本当に幸運だったとしか言いようがない。

4.5 慌ただしかった1962年:GFPの最初の痕跡の発見 74

イクオリンをカラムクロマトグラフ法によって精製しているときに、イクオリンよりも早く溶出して緑色の蛍光を出す別のたんぱく質を微量見つけたので、このたんぱく質も精製した。これこそが今では緑色蛍光たんぱく質、つまりはGFPと呼ばれ、知名度も応用例もイクオリンをはるかに凌ぐようになるたんぱく質だった。

4.6 バミューダのファイヤーワーム 77

1962年8月10日、私たちはゴカイの一種のファイヤーワーム(オドントシリス)を研究するためにバミューダ諸島に飛んだ。ファイヤーワームは体節がある海生のミミズのような生き物で、交尾や繁殖の時に発光することが知られている。メスの緑色の光がオスを引き寄せるのだ。クリストファー・コロンブスの探検隊が1492年にバハマを航海したときに見て、船乗りたちが陸地が存在する証拠とした光は、この生き物が放った光だったかもしれない。

発光ゴカイは長さ1-2センチメートルのミミズ状の生き物で、海水の表面に上がってくるのは満月の後のほんの数日間だけで、それも日没から1時間後のわずか数分間だ。緑色の光を放つメスが先に水面近くに現れて、小さな円を描き始める。すると数秒後に多数のオスが現れて、メスをめがけて進む。彼らの活動は光の広がり方が逆向きで海水面全体を覆うようにいっせいに起きる現象だという違いはあるが、まるで緑色の花火のように見えた。

第5章 リスクを伴う努力、生のクラゲ、そして生物発光の謎 81
5.1 再び名古屋へ:1963-65 81
5.2 ニュージーランドの発光ミミズ 83

1965年2月、私はJSPS(日本学術振興会)から研究費を得て、2種類の発光する生物、洞窟に生息する土ボタルのヒカリキノコバエ(アラクノカンパ)と発光性淡水貝(ラチア)を研究をするためにニュージーランドを訪れた。横須賀市博物館(現在の横須賀市自然・人文博物館)の羽根田弥太館長と一緒だった。私たちは香港とシドニーを経由してニュージーランドのウェリントンに到着し、車を借りてオークランドに向かった。途中、パーマストン・ノースで巨大な発光ミミズを短時間調査し、そこにある有名な洞窟で土ボタルのヒカリキノコバエを見たが、グローワーム洞窟は重要な観光資源であったため、試料の採集は許可されなかった。

5.3 再びプリンストン大学へ:家族が増える 87
5.4 イクオリンが光る仕組み:フライデー・ハーバー 95

なぜ私はイクオリンの研究に時間を費やすことにしたのか?それを説明するには、生物発光の一般的な原理の理解が必要になる。光を放つ生き物、つまりは生物発光に人類は古代より魅了され続けてきたが、その機能、化学反応、そして進化の道筋についてまだ解明すべきことが多く残っている。化学反応を解明することで、光を発する能力がなぜ、そしてどのように発達したかのヒントを得られることもあり、科学研究や医学研究への有用な応用方法が見つかることもある。
生物発光のプロセスには分子の酸化などの化学反応の中で、エネルギーが明るい光として一斉放出される過程が含まれている。光を放出する分子は「ルシフェリン」と呼ばれ、堕天使ルシファーの名前と同じように「光を帯びた」という意味のラテン語にちなんで名付けられた。「ルシファー」は、19世紀後半に化学用語に転用される前はマッチの一般的な呼び名として使われていた。初期の科学者には、生物発光がマッチやろうそくの着火に似ているように見えたのかもしれない。ルシフェリンは生物によって異なる場合があるが、一方で関係のない生物種が同じルシフェリンを持っていることもある。生物発光の化学プロセスを理解するには、分解または酸化されて光を放つ分子の構造、その分子を生物が獲得した方法(ルシフェリンを生産するより小さな海の生き物の捕食など)、体内での保存場所、光が反応を引き起こしたり、長期間継続させる物質(酵素)、そして反応を引き起こすトリガーについて知る必要がある。反応を引き起こすトリガーは、環境の変化だったり、または発光する生物自身が光を制御するために出すイオンだったりする。多くの海洋生物は発光するが、その理由はよくわかっていない場合が多い。さらに、光の色は蛍光たんぱく質の影響を受けることもある。生物発光のこうした特徴は、まったくの謎として放置されない限り、自然に対する興味深い洞察を与え、有用な応用方法の発見につながる可能性がある。

5.5 クラゲ標本の扱い方 97

1974年、イクオリンによる生物発光とウミホタルの生物発光が同種の化学反応によって引き起こされていると最終的に結論付けた私は、ウミホタル型ルシフェリンの構造を基本として光を放つタイプのイクオリンの構造を描き出した。そして1975年にこのタイプのイクオリンを「セレンテラジン」、アシル化されたAF350を「セレンテルアミド」と名付けた。ここでセレンテラジンの構造を解明できたのは、ウミホタルの発光の背後にある化学反応がすでにわかっていたからだということを強調しておきたい。

5.6 イクオリン以外の研究テーマ:1965-1978 103

1966年から、ニュージーランドの発光性淡水貝のラチアのルシフェリンの構造の解明に私は取り組み、ラチアのルシフェラーゼの特徴についても研究を進めた。

オキアミ(メガニクチファネス)の生物発光を研究するために、1966年8月にジョンソン教授と一緒にスウェーデンのクリスチナバーグ臨海実験所を訪れた。オキアミは長さ2-3センチメートルの小さなエビで、非常に強い青色の光を発する10個の小さな光器官を持っている。日中は海の奥深くに生息しているが、夜になると水面近くまで上がってくる。私たちは同研究所に1ヶ月滞在したが、標本は150体しか採れず、詳しく研究することはできなかった。代わりに美しい海岸を堪能したり、バイキングの遺跡を見たり、観光を楽しんだ。

私たちは、1965年にロサンゼルスで採取した[ツバサゴカイ(キタプテラス)の]試料から生物発光を起こす物質を抽出した。だが抽出物にはおそらく高濃度の核酸が含まれていたため、ヌルヌルとしていて粘り気があり、精製するのが難しかった。やっと精製を終えて、試料をしばらく放置しておくと、今度は試料が自然と少しずつ結晶化していくことがわかった。特性を研究すると、この物質がルシフェリンでもルシフェラーゼでもなく、イクオリンに似た生物発光のたんぱく質であることが判明した。この発光性の発色団がどんな性質のものなのか、今も十分には解明できていない。

ワタセニア(ホタルイカ)の生物発光を研究するために、1970年に名城大学の井上(昭二)博士と日本の魚津を訪れた。そして1974年に再び魚津に行った。井上博士とはとても親しく、後藤(俊夫)博士とも親交があったので、一緒に研究する機会を得られて嬉しかった。ワタセニアは長さ約5センチメートルの深海にいる小さなイカだ。このイカは、卵を産むために4月から5月にかけて海岸近くの浅瀬にやってくる。学名のワタセニアは、このイカの詳細を最初に報告した渡瀬庄三郎博士の名前に由来している。

5.7 発光たんぱく質 108

第6章 ウッズホールのキノコからベルゲンのアカクラゲまで 111
6.1 ジョンソン教授の退職:
ウッズホール海洋生物学研究所(MBL)へ(1977-81) 112

1962年、私たちは緑色蛍光たんぱく質GFPを発見し、1974年にその性質を報告した。そして1979年、ようやくGFPの発色団を研究できるようになった。

1989年、前年にオキアミのルシフェリンの構造も特定した中村(英士)博士によって渦鞭毛藻のルシフェリンの構造が解明された。

1980年、フランスのマリー・テレーズ・ニコラ博士は私の研究室でウロコムシから生物発光の物質を抽出し、スーパーオキシドアニオンが存在すると光を放つようになるたんぱく質を見つけた。ウロコムシは長さ2センチメートルほどで、全身がウロコで覆われている。賢い生き物で、生存のために環境によく適応している。他の動物に攻撃されると、ウロコムシは自分の体から2、3個のウロコを落として、捕食者の標的になるように光るウロコを置き去りにしながら、自分は他の場所へと逃げることができる。そしてウロコムシは失ったウロコを再生できる。

6.2 ウッズホール海洋生物学研究所にて 115
6.3 努と幸が家を出る 118

私たちは1980年に北米産の発光ヤスデ(ルミノデスマス)の研究を始めた。ヤスデの長さは約2センチメートルで、カリフォルニアのシエラネバダ山脈の標高約1500メートルのあたりに生息し、通常は4月中旬から5月上旬にかけての雪溶けの直後に巨大なセコイアの木の下の地面に現れる。月明かりがあるとどこにこの発光ヤスデがいるかが見つけにくくなるため、採取旅行はいつも新月の時期を狙って行った。私たちは当時ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校にいたポール・ブレーム博士と共同で発光クモヒトデ(オフィオプシラ)を研究した。クモヒトデは茶色がかっていて、長さ5センチメートルほどの細いクネクネと曲がる腕を5本持ち、ロサンゼルス近郊のカタリナ島の海岸で多く見られる。

6.4 わが友後藤さん 128

第7章 1990年代:失ったもの、得たもの、そしてGFPの隆盛 131
7.1 ジョンソン博士の他界 131
7.2 日本にいる親戚の他界 133

57歳の時、私は15年後の2000年に生物発光の研究を辞めることを密かに計画した。将来の研究者に向けて、まだエネルギーがあるうちに生物発光に関する本を書いて出版したいと思っていたのだ。そのため、発光キノコの研究を私の最後の主要プロジェクトにすることにした。

キノコを研究しようと選んだ理由の1つは、実に多種類のキノコが家の周りに生えていることに気が付いたからだった。キノコに興味が湧いたのだ。家を建てるために土地を平らにした時からそのまま残っていた樫の根元が、野生種も栽培種もどちらの種類の菌類も育てるのに適していることを発見し、私たちもシイタケを栽培するようになった。土地の手入れをしたり、近くの木々が生い茂る場所を散策したりすると、キノコはあちこちに生えていた。そして中には光るキノコがあることを知った。

GFPは、例えばメダカやネズミ、カエルやウサギといった蛍光を放つように作製された動物の登場で一般の人にもよく知られるようになった。中でも最も有名になったのは、光る動物をアート作品として展示しようとしたシカゴのアーティストの注文を受けて、パリの研究所で生み出されたウサギのアルバだろう。だが一般の人々から批判が巻き起こり、研究所がアーティストにウサギを引き渡すことを拒否した。蛍光メダカやゼブラフィッシュは台湾で生産され、幅広く販売されている。こうした蛍光動物を作り出すことには、倫理的な課題を含めてさまざまな問題があり、こんな形での応用が人類の幸福や科学の発展に大きく貢献するとは考えにくい。

7.3 純粋な科学の価値 139
7.4 ノルウェーとクロカムリクラゲ 140

発光するクロカムリクラゲは広く世界中に分布している。大きさはだいたい直径数センチメートルでオワンクラゲと大差ない。しかし、ノルウェーのフィヨルドのある地域では、直径8インチ(20センチ)以上、重さも2ポンド(800グラム)近くになるまで育つ。フィヨルドの入り口は狭く浅いため、おそらく外洋とは大きく環境が異なるのだろう。ノルウェーのパー・フルード博士に譲ってもらった標本を使って1996年にこのクラゲの研究を始めると、発光がセレンテラジンとルシフェラーゼによって引き起こされているということがすぐにわかった。ところがこのルシフェラーゼは、非常に比活性が高い、興味深い酵素だったのだ。

第8章 一周まわって元に戻る:自然からの贈り物、科学の世界での栄誉、
そして日本再訪 145
8.1 引退後について 145

英国王室顕微鏡学会のピアース賞の受賞記念セッションは、カリフォルニア大学サンディエゴ校で開催された第12回国際組織細胞化学会議(ICHC)(2004年)のプログラムに組み込まれていた。私の講演のタイトルは「thediscoveryofaequorinandgreenfluorescentprotein(イクオリンと緑色蛍光たんぱく質の発見)」だった。続いて、8月初旬に横浜で開催された国際生物発光・化学発光シンポジウムに招待され、特別講演で「Aequorin&GFP:Anhistoricalaccount(イクオリンとGFP:発見の経緯)」と題して話した。

8.2 自然からの贈り物:オワンクラゲの発生と消滅 148

ここで、オワンクラゲについて、ほろ苦い事実を追加で紹介したい。1961年から1988年まで、私たちはフライデー・ハーバーに19回通い、全部合計すると85万匹ものオワンクラゲを捕まえた。

しかし不思議なことだが、それ以降、クラゲの数は激減しており、1990年以降はほとんど見ることができなくなってしまい、私たちもほんの数匹の標本を集めるのにも苦労するようになった。クラゲの減少は科学研究のせいではない。直径7-8センチメートル以下のクラゲは効率的に処置するには小さすぎるため、研究のためにはほとんど採取していないからだ。加えて、私たちだけではなく他のクラゲの研究者たちも、大量のクラゲが潮流に流されていくのを定期的に目撃するようになり、大きなものもごく一部しか収集できなくなっていった。突然の急激な減少は、1989年にアラスカの海岸近くで起きた石油タンカーのエクソン・バルディーズ号の原油流出事故による海底の環境汚染、地球の温暖化の進行、あるいは未知の理由が原因なのかもしれない。

第9章 終着点:ノーベル賞授賞の発表とノーベルウィーク 157
9.1 ストックホルムへの出発に向けての準備:文化勲章 158

「......これであなたは、生理学生物物理学名誉教授になります。」ということは、すでに私は数年前に名誉教授に突然なっていたということになる!その時は特に誰にも気付かれなかったと思っていた私の(ボストン大学からの)退職が、今やこの名誉ある地位に就くという祝事に変わった。しかし、私のこれまでの歩みを考えると、これもちょうど良い形での展開だとも言えるだろう。何しろ日本で最初の博士号を取得した時も、学位を取るために自覚的に研究を始めたというよりも、それまでの研究の成果があってフルブライト奨学生に応募するということもあったため、たまたま与えられた、という状況だった。つまりは私の研究者人生全体がそもそも筋道立っていないのだ。

9.2 ストックホルムへ 164
9.3 ノーベルウィーク開始 166
9.4 ノーベル賞授賞式と晩餐会 170
9.5 ノーベルウィークの閉幕 173

第10章 ストックホルム以後:ロスアラモス訪問、長崎追悼 177
10.1 日本での歓迎 178

名古屋に行った時、平田教授の未亡人と娘2人と一緒に教授の墓参りに行くことができた。墓石の前で頭を下げると、いつもの穏やかな声で微笑みながら、教授が私に話しかけたのが聞こえた気がした、「よくやった」と。

10.2 ドイツのリンダウ市 180
10.3 ロシアでの研究 182
10.4 ロスアラモスからの招待、原子力爆弾が作られた彼の地へ 185
10.5 歴史の断片? 188

忘れもしないあの日、1945年8月9日、私は何か装置が取り付けられたパラシュートを落とした1機目のB-29爆撃機を見た。おそらく爆発のデータを集めるためだったのだろう。2機目が長崎の上空に辿り着いた時、私はすでに建物の中に戻ってイスに座っていた。その瞬間、強烈な閃光に襲われた。もしあのまま空を見上げ続けていたら、おそらく私の目は見えなくなっていただろう。
 ここ、ロスアラモスでは、70年前に晴れ渡った青い空を背景に見たあの装置付きのパラシュートと同じものが展示されていた。まるで何も隠し事はないとでも言うかのように、原爆の爆発のメカニズムについての説明が書かれていた。材料さえ揃っていればほぼどこでも作れるかのように読めた。そしてそんな想像をしたことが少し怖くなった。
1945年の長崎では、人々が爆弾の正体がわかるまで何日もかかった。何が起きたのか詳細は公開されておらず、交通機関や通信の乱れもあって被害の規模を把握することでさえ難しかった。後になってからも、これまでは原爆というものは存在しなかったため、人々の怪我の状況や被爆の影響の理解もなかなか進まなかった。被害の全体像がわかっている人は誰もいなかった。半世紀以上が経っても日本では長期的な影響を調べるためのデータ収集がまだ続けられている。日本に帰国するたびに妻の明美は、爆心地から一定の距離の範囲内にいた人たちの健康状態と既往歴を追跡している医師たちの定期診察を受けることになっていた。
 「はたして私たちはどれくらいのことを知っていて、実際のところどれくらいのことを理解できているのだろうか。」科学が恐ろしい驚異を成し遂げたこの地に来て、私は疑問に思った。私たちの訪問について、ジョン・マーコフがニューヨーク・タイムズに記事を書いている(2013年5月12日)。この記事で、パラシュートにつけられた装置について説明をしていた人が、私が実際にその装置が爆撃機から落とされるのを見ていたと知って唖然としていたというピアソン博士のコメントが紹介されていた。これらの展示物は、原爆投下以降の世界に生きる多くの人々だけではなく科学者にとってでさえも、もはや博物館に保存されている単なる過去の遺物でしかないのかもしれない。

10.6 妻の明美の原爆の記憶 193
10.7 科学と戦争:再び長崎へ 198

翌年、私は再び日本に戻った。招待されたイベントのうちの1つは、科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議だった。2015年1月に第61回の会議の主催者から招待状を受け取っていた。当該会議は2015年が原爆投下から70周年ということもあって同年11月に長崎で会議を開催することになっており、私はそのことに大いに注目した。「被爆70年―核なき世界、戦争の廃絶、人間性の回復をめざして」とテーマを掲げて、核兵器廃絶を呼びかけた会議だった。パグウォッシュ会議の取り組みは1995年のノーベル平和賞授賞によって広く認められ、核破壊による恐怖のない世界への呼びかけには多くのノーベル賞受賞者も賛同している。
1人で邁進するにしてもそうでないにしても、科学というのは予期せぬ形で世界との繋がりを見出し続けるものだ。この会議の後、私は自分の化学者としての一生にもっともふさわしい結末に辿り着いたと感じた。70年前の長崎の原爆があったせいで化学者としての道を歩み出したわけだったが、このパグウォッシュ会議に参加して、化学者として十分に長い生涯を過ごすことができたということに気が付いた。

第11章 エピローグ 203
11.1 GFPの発見は幸運がもたらしたものだったのか? 204
11.2 私の研究者人生と他の科学者との交流 204
11.3 尊敬する方々 206
11.4 謝辞 207
参考文献 209
索引 211

 


下記文献から抜粋・翻訳し、レイアウトした。

Osamu Shimomura, Sachi Shimomura, John H Brinegar,
Luminous Pursuit: Jellyfish, GFP, and the Unforeseen
Path to the Nobel Prize (Singapore: World Scientific Publishing, 2017).
レイアウト:ラクス・メディア・コレクティヴ
翻訳:鴻知佳子