2020ヨコハマトリエンナーレ 2020年7月3日から10月11日まで 2020ヨコハマトリエンナーレ 2020ヨコハマトリエンナーレ

AfterGlow

コンセプト


ヨコハマトリエンナーレ2020

アーティスティック・ディレクター

ラクス・メディア・コレクティヴ

 

ソースの共有

 

ホワイトノイズ

 

テレビがアナログだったころ、放送が終了すると私たちはテレビ画面の「砂嵐ホワイトノイズ」にじっと見入っていたものだ。この砂嵐に迷いこむのは、不思議に心地よかった。このサイケデリックなミニマリズムの中では、ありとあらゆるものが見え、また想像することができた。その電子ノイズはつかの間の視覚的幻想みたいなもので、私たちはその中に模様を見つけたり、幽霊の姿を見たりしたものだ。本来の機能とは異なるその画面は、呪われた風景を眺める窓のようなものだった。

 

当時は知らなかったが、アナログテレビのまだら模様のホワイトノイズの中には、宇宙誕生のきっかけとなったビッグバンの名残である宇宙マイクロ波背景放射という電磁波が含まれていた。自分たちが眺めているのが、時間の始まりとともに放散されていたものだったなんて! 爆発するたびに光の残余、すなわち光の名残アフターグロウが漏れる。とりわけ通信信号が消えゆくとき、その光は姿を現すのだ。

 

 

ルミナス・ケア

 

宇宙では常に爆発が起きている。太古の爆発は今も衝撃波を伝え、小爆発を繰り返し、爆発ごとに少しばかりの放射線が放出される。太陽の爆発は、ある種のサンゴから紫外線の毒性への反応を惹きだす。その光から身を守るために、サンゴは自ら発光するのだ。美しい光のパターンは輝きとなり、負担の大きい太陽の放射線から体組織をケアし、守るのである。

 

いつか、この生物発光のサインが未知の生命体を理解することにつながると考える宇宙生物学者も現れそうだ。その生命体は、巨大な太陽が発する激しい放射線に晒された太陽系外惑星に棲んでいる。地球の海に生息し、自らの発光で遠く離れた太陽と対話するサンゴのおかげで、私たちは別の太陽のある別の世界に棲む生命の本質について研究できるようになるのだ。

 

生命、宇宙、世界、そして日々の時間は、数えきれないほどの行為を通じて、分解・再構成され、発光に守られて(luminous care)徐々に再建されていく。短い間の傷も、時間の有毒なかけらが放つ残光(afterglow)の中で回復していく。生命とは発光する独学者(luminous autodidact)なのである。

 

 

茂み

 

2007年6月のある昼下がり、西川紀光にしかわきみつ――彼は67歳の放浪する不定期労働者、いわゆる「日雇い労働者」で、横浜寿町の木賃宿に身を寄せ、横浜湾の港湾労働者として生計を立てていた――曇り空を仰ぎながら、文化人類学者のトム・ギルと大きな声で笑っていた。彼はこう言った。

 

 

図にある宇宙卵はドゥルーズとガタリのアイディアです。
宇宙卵→誕生、だが未成熟→10年20年30年苦しんで修行すると第2の誕生! 生まれてすぐ悟りが開ける人もいる。…… 私の場合は、まだ。……我々は宇宙の一部でありながら、宇宙を創設する ……

 

 

プロレタリアの賢者にして造船所の哲学者である西川は、独学で得た莫大なソースを私たちに提供してくれる。それは同時に、横浜の街で生まれ、そこに根づく、大胆不敵な横断的意識から得たものでもある。

 

西川の遺産は、私たちにとっての「ソース」となる。「ソース」とは参照点であり、また隠喩と探求心にあふれる、行為・素材・痕跡の凝集体である。その「ソース」は、私たちに自問と考察のためのエネルギーを与えてくれる。また、身の回りにある文化的・知的素材を貪欲に漁り、指導者もなしに目覚めていくことで知識を身につけるためのエネルギーを。ソースは、さまざまなアーク、ヴィジョン、ことばの間に非競合で平等の立場を設けられるように、またそれらの要素が互いに関わり、感染しあえるようにしてくれる。

 

ソースはほかのソースを呼び寄せる。そして、旅の、動作の、重点の移動の、小さな変化と大きな変調の旅程アイティネラリーを作り上げる。今日の多軸的な世界にあって、これは自由な解釈の領域を開き、異なる傾向どうしの衝突を助長してくれる。トリエンナーレ制作中の長い熟考の過程の中で、ソースを重層化し、アイティネラリーの厚みを増していくと、創造と発掘を推進する力が生み出されることがわかってきたのだ。

 

私たちは、遠く離れた場所にいる、あるいは近いところにいるヨコハマトリエンナーレ2020の観客やリスナー、および読者の方々に、一連のソースを提供する。これらは異なる時代、文化的背景や地理条件の場から引かれているが、どれも生きることを大切にした個人または集団が書いたものである。きらめきと白熱が集められてパッチワークが作られ、アーティストとその旅の同行者たちが旅立とうとする道のりを照らし出す。ソースは、私たちの対話を導き、活気づけ、インスピレーションを与え、謎をかける。その対話は、アーティスト、キュレーター、作家、そしてこの旅に興味をもつあらゆる人たちとかわされる。ソースとは、私たちに思考させ、火をつけ、学び、そして学びを捨てるような刺激を与える触媒なのである。

 

明滅する光

 

100年以上前、ホリプロバ・モッリクという女性が、ある外国人とともに東ベンガル(現在のバングラデシュ)の村を後にした。彼女が恋に落ちたその外国人は、武田和右衛門という旅する商人だった。彼女は彼とともに船出して、日本という新しい世界を驚きと喜びとともに発見する。日本語がほとんどわからないので、最初は沈黙が唯一のコミュニケーション手段だ。わざわざ世界を半周して一緒に過ごすことになった男の家族と友人との出会いは、彼女の記憶に深く刻まれた。私たちからすれば、彼らは、新しい世界の一員になろうと自ら学ぶひとりの女性に照らし出されているように見える。

 

私たちの友人であり、アーティストで哲学者のスヴェトラーナ・ボイムは、「友情のセノグラフィ」という文章で、ある光について次のように書いている。

 

……極限の状況においては、光明は哲学的諸概念からではなく、男女が光をともし、与えられたわずかな時間を越えて輝く「不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光」から発するのだ ……。「男女がその生まれの如何にかかわらず、互いの閃光を反映しあう」この光明の空間は、私たちが住む現れの世界に光を放つ人間らしさと友情からなる空間である。言い換えれば、友情とは、すべてを明瞭あるいは不明瞭にすることではなく、影と共謀し、戯れることなのである。その目的は啓蒙ではなく光輝であり、盲目的な真実を探求することではなく、不意に出会う明瞭さと誠実さを探求することである。

 

ホリプロバは、次のように書いている。

 

……ひとりひとりがそばに来て挨拶をする。若い人も年とった人も皆、帽子を取って正座し、頭を深く下げてお辞儀をする …… 挨拶をかわす。ひとりひとりが名を名乗って挨拶し、こちらの体調を気遣い、感謝と喜びを表す言葉を口にする。何かを尋ね、答える度に3~4回は頭を下げあうのがこちらの習慣である。私は日本語ができないので、黙ってただ頭を下げるばかりだ。……

 

見知らぬ人にどのように声をかけたらいいかわからなくても、自ら輝くことはできる。一日の労働を終えた体に光る汗からも輝きが放たれるように、あるいは自分の影を分かち合い、細長い空間で相手の影から自分の影が逃げていくときに映し出される光の輪郭のように。
知の形式は、翻訳不可能な経験とせめぎあうことから生まれる。

 

 

反百科事典

 

中世の時代には、南アジア・西アジア・中央アジアと中国・朝鮮・日本との間で、思想や絵、物語やものの考え方が、僧侶、異端思想家、商人、船乗り、巡礼者、逃亡者、奴隷といった旅する独学者たちによってやりとりされていた。

 

珍しい出来事、そのしるしとそれらを回避する方法の説明
象、発情期の象の死、象の状態と病気の説明
音楽、旋律、旋法、108のリズム、それぞれの長所と短所……の説明
神秘的な旅、瞑想、エクスタシー、奇跡、スーフィ―から与えられた14軒の家……の説明

 

『ヌジューム・アル・ウルーム(諸学の星々)』という16世紀に南インドのビージャープル王国で編纂された占星術百科事典では、星を見つめることは友人をケアするときの治療薬となるとされている。そのテクストは、インド、アラビア、ペルシャ、トルコ、セムの生きた知識から派生した思想や実践を寄せ集めた内容となっている。

 

種まきと造園の説明、東風と東風が原因で発生するペストのための薬の説明
医術、病気、痛みの説明、簡便な治療薬と複合的治療薬、病気の原因……の説明
インドとホラーサーンのレスリング、技、流儀と礼儀の説明

 

南インドの夜空を照らすことばは、ヒンドゥー、ホラーサーン、ウィグル文化、トルキスタン、アラビア、古代ギリシャなどの地域の語彙から発される。ことばは、もとの文化圏から枝分かれし、交配する。移動に伴ってコンセプトを生み出しては、増殖する。呪文と処方箋はサンスクリット語、トルコ語、テルグ語、フランク族のことばで註解グロスされている。その註は必ずしも翻訳されているわけではないが、コンセプトをあらわす異語グロサラリアで註解され、拡張していく。

 

火薬の説明と種類、火薬の作り方の説明
香水の作り方、方法論、種類と性質の説明

 

天文学の暦から書記システムに至るまで、私たちには世界が遠く離れた隅の方まで光を照らしているのが見える。そこで使われているのは、異なる成分を吸収する内在的ながらあまねく広がるエネルギーだ。とてつもなく遠くにあるものをつなげる行為には、膨大かつ永続的な意義がある。この驚くべきテクストの「目次」は、知り得たものと想像で書かれたものの間に内的・外的な境界をもたない宇宙の見取り図なのである。

 

夢の解釈の説明と真実と偽りの夢の説明

 

『ヌジューム・アル・ウルーム』があらわす森羅万象には、ほかのものと比べて、特に大きいものも近接するものもない。同時に、小さかったり遠くにあったりするものもない。ここでは行動どうしのきめの細かい網目のようなつながりが受け入れられている。創造的な活動のひとつひとつが、問いのひとつひとつが変化をもたらすソースとなりえ、その変化のひとつひとつが熟考を形作る瞬間をあらわしている。

 

詩の韻律、リズム、その他詩に関するいろいろなことの説明
寓話と伝奇の説明
商人と職人の技能の道具やわざの説明

 

実践のしかた、思考の形式、文化的・歴史的来歴のいかんによって意味のあるなしを規定するような既成のヒエラルキーは存在しない。自分の知っていることをシェアする人は、あるいは自分の知らないことに興味をもつ人はみな友だちになれるし、友だちをケアすることもできるのだ。

 

漁師のアドバイス

 

1945年8月に長崎に原子爆弾が投下されたとき、下村脩しもむらおさむは長崎郊外に住む16歳の少年だった。近くの諫早市で目撃したその目のくらむような閃光を彼は生涯忘れることはなく、そのとき一時的に目が見えなくなったとのちに語っている。彼はその後生命体のなかから光が発生するという生物発光の研究の道に進み、生涯をかけて光と生命の関係性を追求することになる。最初は有機化学を専攻し、ウミホタルの研究にいそしんだ。

 

生物学者、海洋学者、漁師……のアドバイスの協力を求めることを勧める。

 

下村の研究でもっとも重要な発見はウミホタルの研究以降のこととなるが、その研究を支えたのは、1万匹のクラゲだった。彼はその1匹1匹を丁寧に観察したのだ。彼が漁師と友だちになることをさかんに勧めるのも、驚くには値しないだろう。

 

オワンクラゲから単離、精製することに成功して発見された蛍光タンパク質(GFP)は、その後実地に応用され、ある遺伝子が発現しているかどうかを容易に判別するレポーター遺伝子の通告により、水域の汚染状況と有毒物質の水準を測るために利用されるようになる。レポーター遺伝子に「移入トランスフェクト」された生命体は「発現」し、有毒な物質の存在に反応して「発光」する。この技術は、それ自体では無害なので、バイオセンサーとなり、水界生態系の健全性を維持するための生体レポーターとして重要な手段となった。

 

 

分割

 

サンゴは紫外線の毒に対して発光し、オワンクラゲは毒性を探知するレポーター遺伝子を集めるために採取される。発光と有毒性の間にはつながりがある。

死んでいるなら毒性について考える必要はない。生きた細胞を成長させる条件は、その衰弱を惹き起こす環境とも切り離せない。私たちは、環境、内部要因、外部刺激など、成長をしのぐほどの、あるいは抑えるほどの衰弱を惹き起こすものを毒性と呼ぶ。
それは毒であったり、汚染であったり、治療(矯正)であったり、廃棄物であったり、抑えがきかなくなるほどの成長であったりする。

 

毒物も、排除とヒエラルキーをシステム化する礎となる。インド半島の文明の毒物と生命の関係をめぐる深淵な非-思考を繰り返さぬよう学ぶことができる。それは何千年もの間続いてきたし、今でも続いているのだから。毒物が多勢の人にとってのお荷物になっている一方で、ごく少数の人はまったく汚染されぬままだ。排泄物や死骸から発生する臭いや毒素に汚染されないよう生物圏を清潔に保つという困難な仕事はかくして分離された。死を、感染症を、人間と動物のし尿を、生産物のかすを扱うことは、時間・権力・財をもつ人の仕事では、すっかりなくなってしまった。

 

闇の部分を分かち合うことはなくなってしまったのだ。

 

生命のケアと自己のケアは、毒とともに・・・・・ケアすることなしには成立しない。私たちは、自分たちの抱える病、屍肉、生産と消費のサイクルが出す残留物について考えなければならない。そのとき、運命という名に隠された残酷な労働区分をしてはならない。都市郊外に広がるゴミの山はどれも、現在が生み出した未来への需要を表している。だが、そんな未来には報われる保障もない。せいぜい考古学者たちがやって来るぐらいだろう。ケアする光と毒のもつ闇の部分を分割することは、この惑星の生命体の未来に対して害をなすのだ。

 

 

有毒な光

 

原子炉のメルトダウンが起こす不思議な現象に、経験はできるが目では見ることのできない光輝(glowing light)の知覚というものがある。チェレンコフ効果として知られるこの現象は、メルトダウンもしくは「臨界」時に荷電粒子が誘電体の内部をその物質内での光速よりも速く進むときに放射される光によって現れる。そもそも核物質から放射された光速より速いものが眼球の硝子体液を通過したときに現れる「蒼い光」は、眼球のなかの「経験」が脳に伝達されて知覚されるもので、視覚的現象として「見る」ものとは異なる。目が、目の外の、あるいは目の前の光を知覚していたとしても、人間が目にするという環境で起きたことではない。宇宙飛行士たちも太陽が宇宙で原子爆発する際に放射される太陽放射で同じような経験をすることがある。

 

その光は、美しいには違いないが、有毒な放射能のマーカーでもあり、ヴィジョンとして経験されるのだ。この亡霊のような光は、福島の原子力発電所の事故の後にも経験されたといわれている。私たちの理解では、現代という時代のもつ毒性は、この亡霊のような光を育むことと出会わされなければならない。アーティストはこの光輝を、その美しさと危険性を感知しようとする。そのおかげで、私たちは常に身の回りで起きているあらゆるメルトダウンを見ることができ、これから生き抜くための――あるいは繁栄していくための方法を学べるようになるだろう。私たちは毒性と共存する生き方について考え始めなければならない。それを追放することは愚行だという自己認識に立たなければならないのだ。

 

翻訳不可能なことば―オントシラ

 

ベンガル語の「antashira(オントシラ)」ということばは、内在的な流れとあまねく広がる感覚を表すときに使われる。この流れと感覚は、日々の暮らしの中に流れる知覚の層を作り出す。オントシラは、「気」のように、神経系のエネルギーの流れに似たものだ。「オントシラ」は、そのすべての広がりの中に生命を形づくる。今日、世界は、さまざまなオントシラの中から持続性とインスピレーションや力を引き出さなくてはならない。オントシラは、私たちの内在的であまねく広がる力であり、私たちすべての間を流れていく。その流れにつれて、私たちは、個々の生のミクロコスモス(小宇宙)と、この惑星というつながりあった生命と、宇宙というマクロコスモス(大宇宙)の関係を作り直すのだ。

 

 

エピソードから始まるヨコハマトリエンナーレ2020

 

私たちはときどき、トリエンナーレと次のトリエンナーレの間には1000日ほどあるという単純な事実を忘れてしまう。私たちはその時間のある部分を通路だと考えたい。そこで(世界じゅうの)たくさんの人々に、今回のトリエンナーレを作りあげるさまざまなインパルスを、見つめ、精査し、興味をもってもらえるようにしたいのだ。対話を広げていければ、私たちは、言説と実践、調査と制作、少数派と多数派、隠蔽と公開の間にある強固な区分をほぐしていけるだろう。この対話は、美術作品とそれをめぐることばが、期待され、受け止められ、伝わっていく過程にしたがって進めていかなければならない。

 

私たちは、「エピソード(Episōdo)」(日本語を英語表記にしたもの)という短期間のイベントを断続的に行い、こうした対話のきっかけを作りたいと考えている。「エピソード」ということばは、ある時点の出来事に注目したとき何が起きるかを考えるために選ばれている。たとえば、気温が突然変化するのに立ち会ったらどうなるのか? 明るすぎる空を見上げて日食を観察しようとするとどうなるのか? あるいは、本来関係のない器械の間に予期せぬ同期が起こるとどうなるのか?

 

「エピソード」は、以下のようなものの間に網を張っていく。次々に行われる集団での作品制作、素材をめぐる静かな内省と思索、遠くない未来に向けての組織づくり、音の世界の探究、インフラと廃棄物を隠す硬いうわべについての研究、スポーツにおける息をのむ美技をめぐる好奇心……。そうして「間の時間」、次の1000日への時間を刻んでいくのだ。

 

「エピソード」に招かれるのは、アーティストやキュレーター、映像制作者、ダンサー、ミュージシャン、パフォーマー、わけても未来学者だ。彼らは打ち解けた集まりの中で実験を行う。そこでは自然発生的に歴史的証言が行われ、はっきりしない話があえて語られ、思想の旅程アイティネラリーが推敲され、異なる時代のエコロジー的・歴史的調査に誰もが耳を傾けるだろう。

 

ヨコハマトリエンナーレ2020の展示はサイトスペシフィックであり、タイムスペシフィックだが、その一方で、「エピソード」は「エピソード」ならではのやり方で、横浜をばらばらで一時的なサイトからなる別々のコミュニティ群との対話に巻き込んでいく。

 

「エピソード」は、2019年11月に横浜で行われる「エピソード00 ソースの共有」から開始される。イベントは、香港、ニューデリー、ヨハネスブルグに移動し、「ディスカーシヴ・ジャスティス」(とりとめのない正義)に関する対話を始め、2020年7月に開幕するトリエンナーレの期間中、横浜で本格的に展開される予定である。

 

 

[須川善行訳]


参考文献:

The Big Bang’s Playing on TV

https://www.nasa.gov/vision/universe/starsgalaxies/cobe_background.html

 

Jack T. O’Malley-James and Lisa Kaltenegger, “Biofluorescent Worlds – II. Biological fluorescence induced by stellar UV Flares, a new temporal biosignature,” Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 488, Issue 4 (October 2019), pp. 4530–4545.

 

Tom Gill, Yokohama Street Life: The Precarious Career of a Japanese Day Laborer [Asia World Series of Publications] (London: Lexington Books, 2015).

和文はトム・ギル『毎日あほうだんす――寿町の日雇い哲学者西川紀光の世界』(2013年、キョートット出版)より抜粋。

 

Svetlana Boym, “Scenography of Friendship,” Cabinet, Issue 36 “Friendship” (Winter 2009-2010)

Online article: http://www.cabinetmagazine.org/issues/36/boym.php) (清水知子訳)

 

Hariprabha Takeda, Bongomohilar Japan Jatra (A Bengali Woman’s Voyage to Japan), first published in Dhaka, 1915. Reprinted by Sahitya Prakash Publishers, Dhaka, 1999. English translation from Bengali by Debjani Sengupta, commissioned for Yokohama Triennale 2020.

ホリプロバ・タケダ「あるベンガル婦人の日本訪問記」『遡河』第10号(富井敬訳、1999年、遡河編集部)

 

Emma Flatt, “The Authorship and Significance of the Nujūm al-‘ulūm: A Sixteenth-Century Astrological Encyclopedia from Bijapur,” Journal of the American Oriental Society , Vol. 131, No. 2 (April-June 2011), pp. 223-244.(帆足亜紀訳、矢野道雄 翻訳監修)

 

Osamu Shimomura, “Advice to Students Who are Interested in Studying the Chemistry of Bioluminescence,” Bioluminescence: Chemical Principles and Methods (Singapore: World Scientific Publishing, 2006), pp. 375–378. (帆足亜紀訳)

 

Raqs Media Collective, “The Equal Division of Toxicity,” Livemint (29 August, 2018)

Online article: https://www.livemint.com/Leisure/JuxEvOeT79uyhy5q75DRbI/Raqs-Media-Collective-dreams-of-an-equal-division-of-toxicit.html

 

E.D. Clayton, Anomalies of Nuclear Criticality, Revision 6 (Washington: Pacific Northwest National Laboratory, 2010).

 

Kimura, Toshihiro Takatsuji, Koji Uchiyama, Yukako Komasa, Akiko Kitamura, Hitoshi Sato, Michael Buzinny, “Current Situation and Challenges at Fukushima: Hands-on Measurements of Radiation Contamination after Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant Accident,” presented at the 20th IMEKO TC4 International Symposium and 18th International Workshop on ADC Modelling and Testing Research on Electric and Electronic Measurement for the Economic Upturn, At Benevento, Italy, September 15–17, 2014.
Online article: https://www.researchgate.net/publication/266140667_Current_Situation_and_Challenges_at_Fukushima_Hands_on_Measurements_of_Radiation_Contamination_after_Fukushima_Daiichi_Nuclear_Power_Plant_Accident

Yokohama Triennale 2020

Artistic director

Raqs Media Collective

 

SHARING OUR SOURCES

WHITE NOISE

 

In the days of analog television, when broadcast signals went off-air, we would stare at what was called  ‛white noise’ on our TV screens. There was a strange comfort in getting lost in this white noise. It was possible to see and imagine anything and everything in its psychedelic minimalism.
The electronic noise was a sort of ephemeral optic chimera, and we looked in it for patterns, and saw ghosts. This dysfunctional screen became a kind of window onto a haunted landscape.

 

What we did not know then was that in every patch of analog television, white noise contains a fraction of cosmic microwave background radiation left over from the Big Bang. We did not know that what we were viewing had emanated at the beginning of time. Every explosion leaks a glowing residue, an afterglow, or a sign that manifests itself especially in the moment when the signal goes out.

 

LUMINOUS CARE

 

The universe explodes all the time. Primeval explosions still relay their shock waves, setting off echoing sub-explosions, each with their own bit of radioactive charge. Sunbursts induce some coral species to react to the toxicity of the sun’s ultraviolet waves. In return, they emit their own bits of photo-protective bio-florescence—beautiful luminous patterns that end up illuminating, caring for, and protecting the organism from stressful solar radiation.

 

Some day, some astro-biologists would think, that this signature of bio-florescence could guide us to understand alien forms of life in exo-planets exposed to the harsh solar radiation of their own gigantic suns. Corals, anchored in the Earth’s ocean floor lighting up in conversation with our distant Sun, make it possible for us to investigate the nature of life in other worlds, with their suns.

 

Life, the universe, the world, and the time of each day disintegrate and get re-constituted through innumerable acts, incrementally re-building through luminous care. Broken minutes are mended in the afterglow of time’s toxic debris.
Life is a luminous autodidact.

 

A THICKET

 

On a rainy June afternoon in 2007, Nishikawa Kimitsu—a 67-year-old itinerant casual worker, a ‛day labourer’ who lived in cheap bedsits in Yokohama’s Kotobuki neighbourhood, earning a living mainly as a longshoreman in the Yokohama docks— looked up at the clouded sky and laughed a big laugh as he spoke to the anthropologist, Tom Gill. This is what he said:

 

 

The cosmic egg in the diagram is an idea I took from Deleuze and Guattari. We get born from the cosmic egg but remain immature; we suffer and go training for ten, twenty or thirty years, and then we have a second birth! Although there are some people who achieve enlightenment as soon as they’re born… . In my own case, I haven’t got there yet. … We are part of the universe, but at the same time we are creating the universe.

 

 

As a proletarian sage, a philosopher of the dockyards, Nishikawa offers us an immense source of auto-didacticism, and of a confident transversal
consciousness born and anchored in the streets of Yokohama.

 

Nishikawa’s legacy becomes a ‛source’ for us. A ‛source’ is a point of reference; a cluster of concentrated acts, materials, and traces rich in metaphor and investigative clues. Here, the ‛source’ gives us the energy of self-enquiry and examination, as well as of learning through an intense scavenging of cultural and intellectual material around us, and a process of awakening, without masters.
Sources enable the making of a non-rivalrous, egalitarian stance between various arcs, visions, and utterances, and allow for them to play with, and infect each other.

 

Sources attract other sources, and build itineraries of travel, of movement, of shifts in emphasis, of minor variations and major modulations.
In today’s vari-axial world, this makes for an open-ended field of interpretation and a collision of dispositions. We have found that engines of creation and excavation can be produced through a layering of sources, and a thickening of their itineraries, during the long deliberative process of making of a triennial.

 

We offer distant and proximate viewers, listeners, and readers of the 7th Yokohama Triennale in 2020 an array of sources. These are drawn from different periods, cultural milieus, and geographies, and are written by individuals and collectivities that have cared for life. These combine a patchwork of sparks and incandescence that can illuminate the journey that artists and co-travellers are embarking upon. The sources guide, inform, inspire, and riddle our conversations with artists, curators, writers, and everyone else interested in this specific journey. They act as catalysts that provoke us to think, to ignite, to learn, and unlearn.

 

FLICKERING LIGHT

 

Over a hundred years ago, a woman named Hariprabha Mallik left a village in eastern Bengal (now Bangladesh) to accompany a foreigner, the man she had fallen in love with, an itinerant merchant named Takeda. She sailed with him to Japan and found herself in a new world, which surprised and delighted her. She knew next to no Japanese and at first could only communicate in silence. Her encounters with the family and friends of the man she had travelled half the world to be with, left a mark on her. To us, they seem lit by a light of a woman teaching herself to become a part of a new world.

 

A friend, the artist and philosopher Svetlana Boym, wrote about a kind of light in her essay “Scenography of Friendship”:

 

… In circumstances of extremity, the illuminations do not come from philosophical concepts but from the ‛uncertain, flickering and often weak light’ that men and women kindle and shed over the lifespan given to them. This luminous space where ‛men and women come out of their origins and reflect each other’s sparks’ is the space of humaneness and friendship that sheds light on the world of appearances we inhabit. In other words, friendship is not about having everything illuminated or obscured, but about conspiring and playing with shadows. Its goal is not enlightenment but luminosity, not a quest for the blinding truth but only for occasional lucidity and honesty

 

Hariprabha wrote:

 

One by one many people came to meet us. Young or old, they took off their hats, sat on folded knees and bowed to each other in greetings. They introduced themselves, greeted each other, asked about our health, gave thanks and expressed their joy at meeting us. At each exchange of question and answer, it was expected to bow three or four times to each other. Since I knew no Japanese, I bowed silently.

 

If you do not know how to say something to a stranger, you can still glow, as one does sweating after a day’s labour, or even just share your shadow with them, creating an outline of light in the narrow space where your shadow just shies away from meeting theirs.

A form of knowledge grows out of the jostling of untranslatable experiences.

 

AN UN-ENCYCLOPAEDIA

 

In the Middle Ages there is a traffic of ideas, images, stories, and concepts between South, Western and Central Asia and China, Korea, Japan.
It is carried by itinerant autodidacts—monks, heterodox thinkers, merchants, sailors, pilgrims, fugitives, and slaves.

 

A description –

 

of rare events, an account of their signs, and how to repulse them;
of elephants, their death in the state of rut, their conditions and their diseases;
of music, the melodies, modes, and 108 rhythms, and their merits and demerits;
of the mystical journey, meditation, ecstasies, miracles and fourteen houses given by the Sufis.

 

Nujūm al-‛ulūm (Stars of the Sciences), a 16th century astronomy manual from the kingdom of Bijapur in South India, proposes star-gazing as a form of medicine for the care of friends. The text takes its bearings from a mélange of concepts and practices that originate in Indic, Arabic, Persianate, Turkic, and Semitic bodies of working knowledge.

 

of sowing seed and gardening, of the eastern wind and medicines for pests caused by it;
of the medical sciences, diseases, ailments, and a description of simple and compound medicines and their causes;
of Indian and Khurasani exercises of wrestling, its tricks, and their modes and manners.

 

Terms to illuminate the night sky of Southern India emanate from the vocabularies of Hind, Khurasan, Uighur culture, Turkestan, Arabia, Ancient Greece, and elsewhere. They branch out and cross-fertilize, creating concepts as they move and proliferate. Spells and formulae are glossed in Sanskrit, Turkish, Telangi, and Farangi. They are not always translated, but always glossed into an expanding glossolalia of concepts.

 

of fireworks and the various sorts and the ways of making them;
of making perfumes, the methods of it and the varieties and kinds of it.

 

From star-gazing almanacs to writing systems, we can see a world illuminate its distant corners through the intrinsic and pervasive energies of heterogeneous absorption. Acts that bridge vast distances have enormous and lasting significances. The “Table of Contents” of this remarkable text is an atlas of a universe that knows no internal or external boundaries of the knowable and the imagined.

 

of the interpretation of dreams and a description of true and false dreams.

 

In the expansive universe of Nujūm al-‘ulūm, there is nothing so big or proximate that it is also not simultaneously small or distant in relation
to something else. There is an acceptance of a delicate web of actions. Every creative act, every inquiry can be a source of transformation; every transformation describes a moment that can inform a deliberation.

 

of poetic metre, rhythms, and whatever is connected to poetry;
of fables and romances;
of tools and instruments of the crafts of traders and artisans.

 

There are no predetermined hierarchies that dictate which mode of practice, which form of thinking, which cultural or historical provenance is of lesser of greater significance. Everyone who shares what she knows, or is curious about what he does not know, can be a friend, and can care for friends.

 

ADVICE OF FISHERMEN

 

Shimomura Osamu was a sixteen-year-old living in the outskirts of Nagasaki when the atomic bomb dropped on the city in August 1945. He could never forget the blinding flash of the explosion, and recalls losing his vision temporarily. He found a way to think about the relationship between light and life for the rest of his life, and went on to research bioluminescence, the light that glows in living things. He started studying organic chemistry, researching the luminescence of a kind of shrimp known in Japan as umi-hotaru or ‛sea-firefly’.

 

It is advisable to seek the advice and help of biologists, oceanographers, fishermen …

 

Shimomura’s most important discoveries came later, and were made with the help of ten thousand jellyfish, each of which he studied carefully. It is not surprising he advocated friendship with fishermen.

 

His research on Green Fluorescent Protein (GFP), a genetic marker of bioluminescence that he isolated in Aequorea victoria, or the Crystal Jellyfish, found a practical application in the development of a method of indexing levels of toxicity and pollution in water bodies through the ‛expression’ provided by ‛reporter genes’. The creatures who were ‛transfected’ with the ‛reporter genes’ became expressive, as in they could be stimulated to ‛glow’ in response to the presence of toxic materials. This technique, harmless in itself, became a bio-sensor, a living reporter and vital tool in the maintenance of the health of aquatic ecosystems.

 

THE SPLIT

 

Corals glow to counter the poison of ultraviolet radiation, and crystalline jellyfish are harvested for ‘reporter genes’ to help detect toxicity: There is a connection between the luminous and the toxic.

Nothing that does not live need be concerned with a toxin. The conditions that enable living cells to grow are accompanied by the circumstances that cause their decay. The environment, internal drive, or external stimuli that causes decay to outpace or arrest growth gets called toxicity. It can be poison, it can be pollution, it can be a cure, it can be waste, and it can be runaway growth.

 

Toxins also become the foundation of the systematization of exclusion and hierarchy. We can learn not to repeat Indic civilization’s profound non-thinking on the relation of toxins and life that has carried on—and carries on still—for thousands of years. Toxicity has been made a burden that must be borne by a large number of people, while a few can keep themselves pure. The difficult task of keeping the biosphere clean of stench and of the poison that arises from faecal or dead matter was thus partitioned. The handling of death, of infectious disease, of human and animal waste, and of the residues of production was not for people with time, power, and wealth.

 

The sharing of shadows was extinguished.

 

The care of life and the care of self are not possible without care with toxicity. We have to think about our sickness, our offal, and our residues of the cycles of consumption and production without cruel partition, masked as destiny. Each hillock of refuse on the outskirts of a city represents a demand made by the present on the future, with no promise of recompense, until the archaeologists come calling. The splitting of the luminosity of care from the shadows of the toxic is detrimental to the future of life on this planet.

 

TOXIC GLOW

 

A mysterious effect of the meltdown of a nuclear reactor is a sensation of glowing light that can be experienced by human beings but cannot be seen in front of one’s eyes. This is attributable to a phenomenon known as Čerenkov Radiation, in which particles that can travel faster than light are emitted by a nuclear meltdown or a ‛criticality incident’. These particles interact with the liquid in the vitreous humor of the human eye to create a ‛blue glow’ that can be ‛experienced’ internally by the optic nerve and transmitted as a sensation of light to the brain, without being ‛seen’ as an externally observable optical phenomenon because these particles move faster than light. It is as if the eye were sensing a light, out there, in front of it, that was nevertheless not ‛in’ the environment of the human witnesses. The same thing can happen to astronauts exposed to solar radiation, which is emission from nuclear explosions that are constantly happening in the sun in outer space.

This glow, beautiful though it is, is also a marker of toxic radioactivity that is experienced as a vision. This hostly, spectral glow is said to have been experienced by people who worked in the Fukushima Nuclear Plant in the aftermath of the nuclear accident. In our understanding, the toxicity of our time has to be encountered with a cultivation of this spectral glow. Artist try to sense this luminosity, its beauty and its danger, so that we can see the meltdown that is happening around us all the time and teach ourselves how to survive—and to thrive. We have to begin to think of life with toxicity, and with the self-knowledge that banishment is a folly.

 

ANTASHIRA, AN UNTRANSLATABLE

 

A Bengali word antashira can be used to speak of an intrinsic flow and pervasiveness that creates a sensory layer which flows within our daily lives. Antashira is like the energy currents of the nervous system, like qi. It shapes life in all its extensibility. Today, the world needs to draw sustenance, inspiration, and strength from within varied antashira, our intrinsic-pervasive forces, that flow between all of us as we re-fashion relationships between the microcosm of singular lives, the connected life of the planet, and the macrocosm of the universe.

 

 

YOKOHAMA TRIENNALE 2020 TO START WITH THE EPISODŌS

 

Sometimes we forget the simple fact that there are about 1000 days between two Triennials. We want to consider some part of these days as a passage where many (from all over the world) regard, scrutinize, and wonder upon the various impulses shaping this specific edition. By expanding our conversation, we could soften hard partitions between discourse and practice, research and art making, the minor and the major, concealment and revelation.This conversation needs to course through the way artworks and utterances are anticipated, absorbed, and relayed.

 

We offer a sequence of intermittent, short-durée occurrences that we call Episōdos (from the Japanese for ‘episodes’), so as to provide an opportunity for such conversations. The word Episōdo is chosen to consider what happens when a scene seizes the attention of a time. For example, what happens when we witness a sudden change of temperature? What happens if we try to look upon an eclipse through an over-lit sky? Or, what happens when an improbable synchronicity appears between unrelated instruments?

 

The Episōdos will weave in exuberances of collective artistic production, quiet reflections and speculation on materials, associations yet to form in a not-so-distant future, traversals of sonic worlds, investigations into hard surfaces of infrastructure and waste, curiosities about breathtaking acts in sporting arenas, and count the “time of in-between,” a time to the next 1000 days.

 

Invited to Episōdos are artists, curators, cineastes, dancers, musicians,
performers and futurists among others. They will experiment in gatherings that play out unrehearsed historical propositions, risk uncertain stories, elaborate on itineraries of ideas, and listen to ecological and historical soundings from other moments.

 

While the exhibition of Yokohama Triennale 2020 is site- and time-specific, Episōdos will engage Yokohama in conversations with different communities of disparate temporal sites through their own means.

 

The Episōdos will commence in Yokohama in November 2019 with Episōdo 00 “Sharing Our Sources.” The occurrences then move to Hong Kong, to New Delhi, and to Johannesburg to initiate conversations on Discursive Justice and then unfold intensively in Yokohama during the exhibition phase of the Triennale starting early July 2020.

 


References:

 

The Big Bang’s Playing on TV

https://www.nasa.gov/vision/universe/starsgalaxies/cobe_background.html

 

Jack T. O’Malley-James and Lisa Kaltenegger, “Biofluorescent Worlds – II. Biological fluorescence induced by stellar UV Flares, a new temporal biosignature,” Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 488, Issue 4 (October 2019), pp. 4530–4545.

 

Tom Gill, Yokohama Street Life: The Precarious Career of a Japanese Day Laborer [Asia World Series of Publications] (London: Lexington Books, 2015).

 

Svetlana Boym, “Scenography of Friendship,” Cabinet, Issue 36 “Friendship” (Winter 2009–2010). Online article: http://www.cabinetmagazine.org/issues/36/boym.php

 

Hariprabha Takeda, Bongomohilar Japan Jatra (A Bengali Woman’s Voyage to Japan), first published in Dhaka, 1915. Reprinted by Sahitya Prakash Publishers, Dhaka, 1999. English translation from Bengali by Debjani Sengupta, commissioned for Yokohama Triennale 2020.

 

Emma Flatt, “The Authorship and Significance of the Nujūm al-‘ulūm: A Sixteenth-Century Astrological Encyclopedia from Bijapur,” Journal of the American Oriental Society, Vol. 131, No. 2 (April–June 2011), pp. 223–244.

 

Osamu Shimomura, “Advice to Students Who are Interested in Studying the Chemistry of Bioluminescence,” Bioluminescence: Chemical Principles and Methods (Singapore: World Scientific Publishing, 2006), pp. 375–378.

 

Raqs Media Collective, “The Equal Division of Toxicity,” Livemint (29 August, 2018). Online article: https://www.livemint.com/Leisure/JuxEvOeT79uyhy5q75DRbI/Raqs-Media-Collective-dreamsof-an-equal-division-of-toxicit.html

 

E.D. Clayton, Anomalies of Nuclear Criticality, Revision 6 (Washington: Pacific Northwest National Laboratory, 2010).

 

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