2020ヨコハマトリエンナーレ 2020年7月3日から10月11日まで 2020ヨコハマトリエンナーレ 2020ヨコハマトリエンナーレ

2020ヨコハマトリエンナーレ 2020年7月3日から10月11日まで 2020ヨコハマトリエンナーレ 2020ヨコハマトリエンナーレ

AfterGlow

アーティスティック・ディレクターメッセージ


エピソード00 プレイベントにおけるコメント


ヨコハマトリエンナーレ2020

アーティスティック・ディレクター

ラクス・メディア・コレクティヴ

 

目次
第1部 はじめに (約1100字)
第2部 エピソード00によせて(約1500字)
第3部 ヨコハマトリエンナーレ2020コンセプトの共有

 

第1部 はじめに

 

“人生は光り輝く独学者です。独学者は自らに生きるための教えを授けます。このトリエンナーレもやはり同じです。”

 

モニカ・ナルラ(ナルラ): 報道関係の皆さん、横浜市民の皆さん、こんにちは。
私はモニカ・ナルラです。こちらはラクス・メディア・コレクティヴの同僚、ジーベシュ・バグチとシュダブラータ・セングプタです。今日は皆さんとごいっしょできて、うれしく、また光栄に存じます。
皆さん、ヨコハマトリエンナーレ2020の始まりへようこそ。
「エピソード00」へようこそ。
 
このトリエンナーレは、さまざまに異なる言語や方言を使い、翻訳と対話を通じて、ひと息に自らを表現しはじめます。
私たちは、こうしたイベントのことを「エピソード」と呼びます。このことばは、 “Episode” という単語を日本語の変化に合わせた、母音を後ろに加えたいい方から来ています。「エピソード」と呼ぶのは、時のつかの間の住まいへと思いをはせていただき、またアートが提供できるものすべてを強く感じ、気づくためです。
このエピソードは、私たちがこれまでの数年間でアーティストたちとかわしてきたわくわくするような対話や出会いや発見の中からいくつかをえりすぐったものです。そうした中からふたつの瞬間の余韻をこれからごらんいただきます。
 
私たちは、ある午後、京都で新宅加奈子のパフォーマンスを見ました。私たちが見たものはアーティストの身体で、それは震え、縮み、膨らみ、波のように動き、広がっていきました。その実演が見せてくれた瞬間は、誰をも捉えてしまう一瞬へとこだましていくように私たちには思えました。ほとばしる色に照らされ、辛抱強さとバランスに刻印されて。
 
横浜トリエンナーレは、2001年の第1回展から約20年経ちます。長い時間と多くの瞬間を経験してきています。ここの時間の広がりのとらえ方のひとつは、それを情報の氾濫と見ることです。調べていくうちに、私たちは、21世紀が始まってすぐのころに、消えたデータの供養をする儀式を行った日本の仏教僧の話に行き当たりました。
 
同じころ、私たちは田村友一郎と出会いました。彼は辛辣なユーモアの持ち主で、幽霊と楽しくつきあうすべを心得ていました。
今日、友一郎は、また別の祈りを捧げます。クロマキーを使った儀式を行ない、亡霊、害獣、データと笑いを召喚して、情報とともに生きるための、感情的で、かつコンセプト的にもしっかりした方法を見つけようとします。
 
人生、宇宙、世界、そして日々の時間が、こうした数えきれないほどの行為を通してばらばらにされては、再構築されていきます。それはまたルミナス・ケアを通じて、さらに時の住まいを建て直していきます。壊れた瞬間は、時間の有毒なゴミの残光アフターグロウの中で修理されていきます。人生は光り輝く独学者です。独学者は自らに生きるための教えを授けます。このトリエンナーレもやはり同じです。
 
 

第2部 エピソード00によせて

 

“次のトリエンナーレとの間には1000日ほどの時間が挟まっているという事実を、私たちは忘れてしまいがちです。私たちはこの日々を通路と考えたいと思います。そこで(世界中からやってきた)多くの人々が、今回のトリエンナーレを形作るさまざまなインパルスを、見つめ、精査し、興味をもってもらえるようにしたいのです。そのため、私たちは数珠つなぎの「エピソード」という形式の探求へと向かうことになりました。”

 
 
シュダブラータ・セングプタ(セングプタ): 「エピソード」ということばは、あるシーンが時の注意をひいたときに起こることを考えるために選ばれました。
たとえば気温の突然の変化を目の当たりにしたとき、あるいは空が明るすぎる中で日食が起こっているのを見上げようとするときに起こるようなことです。
あるいは、ありえない同期が関係のない機器の間で起こったときに。
「エピソード00」に登場する主役は6人――正確にいえば、5人のアーティストと1冊の本、『ソースブック』です。
 
ナルラ: 次のトリエンナーレとの間には1000日ほどの時間が挟まっているという事実を、私たちは忘れてしまいがちです。ヨコハマトリエンナーレ2020に向けて、私たちはこの日々を通路と考えたいと思います。そこで(世界中からやってきた)多くの人々が、今回のトリエンナーレを形作るさまざまなインパルスを、見つめ、精査し、興味をもってもらえるようにしたいのです。そのため、私たちは数珠つなぎの「エピソード」という形式の探求へと向かうことになりました。
 
この拡張された対話、その一部を皆さんはいまごらんになっているわけですが、それはさまざまなものの間にある堅い仕切りをほぐしてくれます。展覧会と展覧会ではないもの、言説と実践、リサーチとアート制作、マイナーなものとメジャーなもの、隠されたものと顕れているものの間にある仕切りです。この対話が、私たちの方法、私たちの感性、私たちの実践を示してくれます。こうした対話は、アート作品とそれについての発言が期待され、吸収され、また受け渡されていくのにつれ、続いていくでしょう。
 
セングプタ: では、その変化していく持続をめぐる別の3つの瞬間をご紹介しましょう。
皆さんもテレビでよくご存知の西岡愛さんによる朗読です。トム・ギルが横浜にいたある人物について書いた本からで、その人の名は西川紀光です。
西川は、造船所と寿町で生活していたプロレタリアの碩学でした。彼の考えは、私たちのソースの一部をなしています。私たちは西川にはすっかり驚かされました。彼の世界をぜひ皆さんと共有したいと思います。独学者が逆境に直面しつつ知的な欲求にしたがっていくさまを。
 
それに続いて、テキストとイメージから構成される劇の実例をふたつ。まずイヴァナ・フランケ、次にランティアン・シィエです。
イヴァナ・フランケは、現実の固い表面をどうやって明滅し白熱する光によってさえぎるかについて何年も考え続けてきました。その光は宇宙の豊かさについての知見をもたらしてくれます。私たちは彼女が10年以上にわたって、光、形式、物量、表面に対して無我夢中で取り組むところを見てきました。その取り組みが一歩進むたびに、それはより神秘的で悪意を秘めたものへと変わっていきます。
 
ナルラ: 私たちはまた、ランティアン・シィエの切れ目なく続く語りの目撃者でもあります。そこで語られるのは、動的・生成的で、しばしば視線の中から外れてしまうものごとです。点をつなぎ、関係を見つけ、脱臼を作り出す彼の方法を、この実例を見ながらぜひ皆さんにもごいっしょに体験していただきましょう。実は私も、彼が発展させてきた、映画的コスモロジーを示すこのユニークな朗読劇の中で対話の相方役をふられています。
 
今夜は、イシャム・ベラダのパフォーマンスでおしまいとなります。彼の仕事場は、謎めいた物質たちの棲む地帯です。この物質たちは互いに競い合いながら、私たちが恐れつつも捉えられてしまう世界のイメージを作り出します。陶酔するエントロピーのイメージ。形を生み出し、また失っていくイメージ。誕生の限界と瞬間に出会うイメージ。それが繰り返される間、サウンド・アーティストの小松千倫が彼とコラボレーションしてくれます。
 
 

第3部 ヨコハマトリエンナーレ2020
コンセプトの共有

 

“「エピソード」は、さまざまな芸術的存在たちとそれに介在するものとの群れを作り、認知的障害物や知覚の可能性や感情的な立場を伝える役目をにないます。ヨコハマトリエンナーレ2020が時を感染させていくさまざまなやり方を上演し、伝達し、具体化するのです。”

 
 
ジーベシュ・バグチ(バグチ):私はジーベシュ・バグチです。引き続きご出席いただき、どうもありがとうございます。
トリエンナーレのキュレーションへの取り組みをめぐる私たちの思考の展開を皆さんと共有できて、うれしく思います。
 
トリエンナーレは現代美術が生み出した文脈を注意深く見つめる絶好の機会です。それはまた対話を再開します。対話にはさまざまな側面があります。
 
2018年10月(私たちが契約にサインしたとき)から2019年10月(ソースブックを完成したとき)に至る12ヶ月のひとめぐりの間に、コチ、シャルジャ、愛知、台中、シンガポールで、ビエンナーレもしくはトリエンナーレが行われています。ビエンナーレはほかにも行われることになっています。
 
私たちはこれらの中に、複雑な道すじの交通や、新鮮な知的ソースとインスピレーションをみとめます。これらのイベントでは、数多くのアーティストたち、キュレーターたち、そしてアート作品が激しく交流し、何千もの足音がゆきかいます。前例のないことがそこで始まるように思われるでしょう。たまさかこれらのビエンナーレはアジアで行われることになっていて、その地域からの、またそれ以外からのアーティストの参加も歓迎しています。
 
ここで、もっとも大きな存在感を示しているのはアーティストたちです。アジアから来たものばかりでなく、中東やラテンアメリカ、アフリカからも、それにもちろんヨーロッパや北アメリカからやってきたものもいます。さまざまな出身の女性たちによる冒険的なキュレーションも歓迎されています。もし現代的であることがある「世俗性」という意味を含むなら、その存在たちのまったき多様性のおかげで、これらのビエンナーレは現代的なものが(美術の中で)どうなりえるかに対する賭け金を上げていきます。
 
私たちはこの交通を意識しつつ、次回のヨコハマトリエンナーレに参入していきます。構造的に、ヨコハマトリエンナーレ2020ではエネルギーを集めるために国外へと出かけてゆき、また戻ってきます。「エピソード」を通じ、香港へ、ヨハネスブルクへ移動し、洞察と厚くなった旅行記を携えて横浜に戻ってきます。それぞれの「エピソード」は、さまざまな芸術的存在たちとそれに介在するものとの群れを作り、認知的障害物や知覚の可能性や感情的な立場を伝える役目をにないます。「エピソード」は、ヨコハマトリエンナーレ2020が時を感染させていくさまざまなやり方を上演し、伝達し、具体化するのです。
 
 

“展覧会とはミリュー(環境)であり、感情とコンセプトが濃密に詰まった茂み、(中略)常に制作中で静まることがありません。穴が穿たれていて、歴史の吹きだまりや病変にも開かれています。人間の手を逃れ、超人間エクストラ・ヒューマン的な存在を生み出すこともあります。”

 
 
ナルラ: 展覧会とはミリュー(環境)であり、複雑性コンプレクシティーズのうちでしつらえられ、運ばれていくものだと私たちは考えます。複雑性とは、物理的・社会的な力のからみあったものです。その範囲ははっきりしないことも多く、どちらを向いているかもわかりません。ほとんどの場合、理解することも難しければ、世界に対してどんな意味をもつのかもわかりません。ただし、わかりやすいこともあれば、予兆のような感覚を覚えることもあります。沈殿物の層(時間と物質が多層化したもの)や冬眠中の世界や喫緊の事態からできあがった複雑性は、同時に複合的なミリューを含んでもいるのです。
 
これらのミリューは感情とコンセプトが濃密に詰まった茂みで、その端には近寄ることもできません。ミリューは急ごしらえの構成物です。常に制作中で静まることがありません。穴が穿たれていて、歴史の吹きだまりや病変にも開かれています。人間の手を逃れ、超人間エクストラ・ヒューマン的な存在を生み出すこともあります。
 
展覧会は、自らのソースの特定性スペシフィティーズを作り出すことで、ミリュー作りに参加します。ソースによることで、対立する時間的視野をもつ多様な人々の集まりが、ミリューという巣の中にこもれるようになります。これらのソースは、人類の旅路におけるマイナーながら特別な瞬間です。ソースは再編成され、お互いをさらに引き出すことで、共生と主役交代劇の枠組みをかかげるのです。
 
セングプタ: 私は皆さんにビエンナーレにおける青い絨毯について、それから本の制作についてのお話をしたいと思います。
 
上海ビエンナーレの設営中、私たちはホテルのロビーの青い絨毯の上で毎晩一杯やりながら会っていました。
私たちは雑多な集まりでした。キュレーター、アーティスト、映像作家……そのうちの誰もプロの詩人ではありませんでした。ホテルの経営者は喜んではいませんでした。この集まりは大騒ぎだったわけではありません。たくさんの詩を朗唱していたのです。歌になるものもありました。みんな歌がうまかったわけではありません。しかし、聴く側は誰もそんなこと気にしませんでした。
 
ホテルの経営者は家具を取り払ってしまえば、われわれはロビーに集まらなくなるだろうと考えました。しかし、彼らは青い絨毯の心地よさを低く見積もっていました。それから外国人同士の集まりがお互いを知ろうとしているときに、ワインと歌と詩がもつ磁力のような魅力も。私たちの時代の地政学からいえば、そのうち何人かは敵どうしであったはずですが、彼らは最後には友人になりました。詩はつかの間の停戦をいくつか実現してみせたのです。それらはいまだに続いています。
 
詩の韻律は身体の間を通り抜けます、特にしゃべる口と聴いている耳の間を。こうして詩は口伝えで共有されました、それを聴いて記憶した人々が、讃え、通り過ぎていくうちに。こうして詩は読者の手から手へと受け渡されていったのです。
 
ときどきは、ある言語の翻訳が必要になることもありました。ときにはあることばの音や意味が、あるいは単語の間の違いのかたちが、同じ富と軽快さをもつ別の言語へと飛んでゆくこともありました。それは、脱走しようとする兵士が、戦場では敵味方に分かれる軍隊のどちらからもうまく逃げおおせたときに見せるものでした。この経験のおかげで、私たちは2017年に共同編集した軋轢をめぐる詩集の内容と形式をのちに思いつくことができたのです。
 
 

“『ソースブック』には、以下のようなキーワードをもつミリューの構成が含まれています。ケア、毒性、独学、友情、光輝、こだわり、発光――それらすべては一体となって、現在の意味を現在の中に与えてゆきます。”

 
 
バグチ: この『ソースブック』のソース集めには、以下のようなキーワードをもつミリューの構成が含まれています。ケア、毒性、独学、友情、光輝、こだわり、発光――それらすべては一体となって、現在の意味を現在の中に与えてゆきます。
 
「ソース」とは、参照点です。また、隠喩と調査の手がかりに満ちた行為、素材、痕跡の集まりです。この点で、「ソース」は私たちに自問と考察のためのエネルギーを与えてくれます。当然ながら、身の回りの文化的・知的な素材を貪欲に漁ることや、指導者に頼らない目覚めのプロセスを通じて学んでいくためのエネルギーも同様です。
 
ソースの広がっていく宇宙の中では、どれかのソースがほかのものと比べて特に大きかったり近しかったりするようなことはありませんし、同時に小さかったり遠かったりすることもありません。行動どうしのきめ細かい網目が認められています。すべての創造的な行為が、すべての問いかけが変化のソースとなりえます。そして、そのすべての変化が、審査に影響を与える一瞬を記述するのです。
 
セングプタ: こうしたソースを、私たちはアーティストと共有しました。これらはアーティストとの対話の支点として機能しました。これらのソースは、その起源や、出典などの理由で選ばれたわけではありません。それが私たちの想像力を別の次元へと誘ってくれるかどうかによって選ばれています。
 
アーティストからは、たとえばこんな返事をいただいています。
 
「ソースブックにあった情報は、私の好奇心のふたを開いてくれました。まだ途中ですが、テクストの批評的な遊び心を楽しんでいます」
 
「美しいソースブックを送ってくれてどうもありがとうございます!
デザインも素晴らしいですね!」

 
「資料を読み終わりました。残光アフターグロウということばとその考え方が、そこから喚起されるものすべてが大いに気に入りました。全体的に多くのことが個人的なレベルで自分と響き合うので、とてもわくわくしています。特に、トム・ギルの本からの西川さんの抜粋が大好きです。光輝という考え方(とそれを具体化したもの)も同じく。毒性と発光の関係も。友情と輝きの関係についても。ときおり出てくる透明さも。」
 
アーティストたちが開く道は、現在の瞬間につながる、あるいはそこから導かれるさまざまな曲線を甦らせます。それらは、地球外での傾向、未来の予測、私たちをそれも無意識的に呪いかねないものの発掘へと続いています。これらのソースは、諸状況のおりなすある場所ないし群島を探しあてます。そこでは歴史にせよ文化的基盤にせよ、あるいは価値システムにせよ、どれかひとつが中心になるということはありません。前提とされているものは、つまりものの見方の組み合わせであり、それは私たちの中枢神経系を順化することに対する対抗手段なのです。
 
 

“トリエンナーレは、ひとつに統合されたものとして簡単に検索できるようなものなどではなく、複数の複雑性コンプレクシティーズで構成されるものです。(中略)『ソースブック』はこの見方を表明し、キュレーションの枠組みの自覚として記録します。ひとつのソースは別のソースへの扉をあけ、それはまた次の扉へ、次の扉へとつながっていくのです。”

 
 
ナルラ:トリエンナーレは、ひとつに統合されたものとして簡単に検索できるようなものなどではなく、複数の複数の複雑性コンプレクシティーズで構成されるものです。それらは互いを引き出し引き入れあっては、分岐し収束する線を震わせます。『ソースブック』はこの見方を表明し、キュレーションの枠組みの自覚として記録します。ひとつのソースは別のソースへの扉をあけ、それはまた次の扉へ、次の扉へとつながっていくのです。
 
『ソースブック』は、横浜の日雇い労働者、西川紀光に多くを学んでいます。西川は、雇い労働者でありつつ、好奇心に満ちた滞在者であること、宇宙をさまよう独学者であることの意味を具現化します。別のところで『ソースブック』は、また別の空間に起源となる点をもつ二冊の旅行記から文章を拾い集めます。どちらも自分自身の、また自分たちのケアのしかたについて書かれたものです。16世紀の南インドでは、神々しい身体、植物、鉱物、動物、そして天使が、「友人の命をケアするときの治療薬」として書かれた『ヌジューム・アル・ウルーム(諸学の星々)』というデカンの本に詰め込まれています。
 
『ヌジューム』の目次からいくつか引用します。
第11章:予言とよい前兆の説明
第12章:種まきと造園の説明、東風と東風が原因で発生するペストのための薬の説明
第13章:古代の賢人の実験の説明、護符、計算と事象の位置の説明
第14章:医術、病気、痛みの説明、簡便な治療薬と複合的治療薬、病気の原因、万病をインドとペルシャの万病のシステムをもとに区別する方法の説明
第15章:インドとホラーサーンのレスリング、技、モードと礼儀の説明

 
全体の目次は、『ソースブック』でごらんいただけます。
それから、100年ばかり前のことになりますが、ホリプラバ・モッリクが、現在のバングラデシュにある町を後にして、武田和右衛門という外国人との恋のために日本へと旅立ちます。別の世界に慣れ親しむにつれ、彼女の回顧録は農場や台所を作ることへと潜りこんでいきます。
 
彼女の回想録には、新しい世界を構成する外国人へのおもてなしや友情がどんなものであるかを私たちに感じさせる態度が示されています。
 
ひとりひとりがそばに来て挨拶をする。若い人も年とった人も皆、帽子を取って正座し、頭を深く下げてお辞儀をする …… 挨拶をかわす。ひとりひとりが名を名乗って挨拶し、こちらの体調を気遣い、感謝と喜びを表す言葉を口にする。何かを尋ね、答える度に3~4回は頭を下げあうのがこちらの習慣である。私は日本語ができないので、黙ってただ頭を下げるばかりだ。
 
西川のストリートと宇宙をつなげる黙想、16世紀のデカンの写本で「友」と見なされる多くのかたちの生命と物質、そしてホリプラバ・タケダの旅、それらはみな意識の中の別々の隅を照らし出します。それらは共存する複合的な生命を輝かせるエネルギーを指し示します。生物学者下村脩は、生物発光という現象に照らされながら一生を研究に捧げます。理論家で作家のスヴェトラーナ・ボイムは、「友情のセノグラフィ」という論文の中で友情のもつ光輝について探求します。
 
スヴェトラーナの論文から引用します。
「男女がその生まれの如何にかかわらず、互いの閃光を反映しあう」この光明の空間は、私たちが住む現れの世界に光を放つ人間らしさと友情からなる空間である。言い換えれば、友情とは、すべてを明瞭あるいは不明瞭にすることではなく、影と共謀し、戯れることなのである。その目的は啓蒙ではなく光輝であり、盲目的な真実を探求することではなく、不意に出会う明瞭さと誠実さを探求することである。
 
そして、下村さんはこういいます。
生物学者、海洋学者、漁師……のアドバイスの協力を求めることを勧める。
 
バグチ: 『ソースブック』は、平等主義的で非競争的なスタンスを知り、保持し、見るために、これらの抜粋を近い場所に置きます。このスタンスは、分岐し、ときには逆になることさえあるアークたち、創造とヴィジョンと発言の弧(アーク)たちの間にあります。『ソースブック』は、それらの抜粋が互いに感染しあい、つながりあうことを強く求めています。横浜トリエンナーレのもつ時間のリズムとその意味領域を大きく広げるエネルギーの渦と流れを作り出すために。
 
 

残光アフターグロウは、光の明るみの後、しかし暗くなる前にやってきます。それは光のインターバルであり(中略)、また、存在の茂みと生成のエピソードの間にある間質性のエネルギーです。どこかで生物発光する相互関係が、海の底の生命の存在を示します。また別のところでは、友情の発光が、ケアの輝きが、あるいは独学者の目に輝く直観がそれを行うのです。“

 
 
ナルラ:残光アフターグロウは、光の明るみの後、しかし暗くなる前にやってきます。それは光のインターバルであり、輝く期待であり、ぼんやり光る流れであり、オントシラの充満した流れでもあります。それはまた、存在の茂みと生成のエピソードの間にある間質性のエネルギーです。どこかで生物発光する相互関係が、海の底の生命の存在を示します。また別のところでは、友情の発光が、ケアの輝きが、あるいは独学者の目に輝く直観がそれを行うのです。
 
詳細に説明することはしませんが、どうか皆さんが私たちの意図や欲望や方法がどうなっていくか、感じてくださるよう願っております。記者会見は、何枚かのカードをお見せする機会ですが、ほかのカードはまだしまっておきます。まだ皆さんにアーティストのリストはごらんに入れませんが、アーティストはご紹介します。テーマはご紹介しませんが、しっかり読んでいただきたいソースと鍵のセットはご紹介します。こうすることで、私たちは皆さんに、この声明の報告者になっていただくだけではなく、来るべきヨコハマトリエンナーレ2020を通じて行われるわくわくするような探求の過程では対話者になり、パートナーになっていただきたいのです。
 

 (須川善行 訳)