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アーティスティック・ディレクターメッセージ


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あるベンガル婦人の日本訪問記

ホリプロバ・タケダ

 8時、遠くに島影が見えた。船が何隻か止まっているのも見える。島には山がある。ここの海の水は緑色をしている。陸が近くなったからだ。11時頃、船は島のすぐ近くまでやって来た。海に出る道と木々が見える。暑さが厳しい。シンガポールに着くまでは大変だろう。

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 ……午後からずっと、船はひどく揺れ続ける。波は恐ろしい唸り声をたてて船に覆いかぶさり、すべてをびしょ濡れにする。上に乗っていたものはすべて床に落ち、部屋のなかをあちこち転げ回る。ボーイが2人やってきて、すべてのものを一緒に縛りつけて床の上に置いていった。何かに掴まっていない限り、立っていることができない。長椅子に座っていると前に転げ落ちてしまう。その点、寝台には四方に柵がついているので落ちる心配がない。だが私たちの寝台は2つ並べてあって、しかも少し長目なので頭のほうや足のほうに体がずれてしまう。寝台にしっかり掴まって揺れに耐えなければならなかった。眠ることも出来ない。頭が上下に揺れる。どの位揺れ続けていたのかわからない。食欲はない。船には千人ほどの中国人が乗っていたが、皆絶食していた。……

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 ……ひとりひとりがそばに来て挨拶をする。若い人も年とった人も皆、帽子を取って正座し、頭を深く下げてお辞儀をする …… 挨拶をかわす。ひとりひとりが名を名乗って挨拶し、こちらの体調を気遣い、感謝と喜びを表す言葉を口にする。何かを尋ね、答える度に3~4回は頭を下げあうのがこちらの習慣である。私は日本語ができないので、黙ってただ頭を下げるばかりだ。……

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 ……店にはさまざまな品が美しく飾り付けてあった。日本と外国の服やしゃれた日用品から食べ物まで揃っている。私たちはここで食事をした。この店のなかの部屋のひとつには様々な種類の花や木が置いてあった。外の冷たい風が入らないようになっているので、この寒さの中でも木は生き生きとし、花は咲きほこっている。時折、客の気分をなごますために、楽団が演奏していた。……

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 ……社の外側には、木の塀で囲まれた建物がある。その中の三つの扉を通って行くと一室があって、そこに神様がいらっしゃるのだという。外からはお社の中の真鍮で出来たその建物が見えるだけである。一般人はここより中へは入れない。神様がどんなお姿なのかは分からない。だが、この宏大な神社にその無形の神様が祭られていることは充分に感じることが出来るし、神様のお姿を見られないことでかえってその感覚が助長されるようだ。大勢の参拝客が訪れていた。庭園の一角に、先のロシアとの戦争の時に戦利品として獲得した2門の大きな大砲、日清戦争のときの大型大砲1門と小型のものいくつか、それに戦艦の大きな錨が置かれている。伊勢にはここの他にももうひとつ、このように庭園で囲まれた神社がある。そこの池では赤い魚やいろいろな大型の魚が泳いでいた。透き通った水の中の魚たちは、食べ物を求めて見物人たちの所に一斉に集まってくる。池のほとりではビスケットなどを売っていて、見物人たちはそれを買い、魚に食べさせて楽しんでいた。参拝を終えて、夕方の汽車で帰宅した。
 夫は大きな腫れ物が出来て、数日間苦しんだ。

 1月1日、お正月。前日には畳を上げて大掃除が行なわれた。今日は皆、新しい服を着て新年を祝っている。1月1日は町中の人が新しい年の始まりを喜ぶ日なのである。祝賀の行事は7日間続く。神社や寺では幾日かにわたって祭りが行われる。それにいろいろな芸能だの、閲兵式なども披露される。村でもこの国の新年を盛大に祝う。元旦には新しい服を着て神社にお参りに出かける。子どもたちは、皆揃って外に出て遊んだり凧を上げたりする。家々は葉や旗で飾りたてられる。2日になると朝、沐浴をしてから仕事始めの行事をする。それぞれの仕事を少しだけして、吉兆とするのだ。……

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 東京は日本の首都である。東京では特別のいくつかの建物を除いて、後はすべて木で出来ている。首都としてはそれほど立派とも思えない町だ。道には人力車と路面電車がひっきりなしに通り、ごくまれに馬車が走っていく。道巾は広い。雨が降ると、どこもかしこもぬかるみとなる。木の履物を使うせいで、泥が一層深くなる。路面電車はとても便利で、パイサで切符を買って、町のどこへでも行ける。途中乗り換えがあっても一枚の切符ですむ。電車は1両だけで、1等、2等の区別はない。車両の前後に扉がある。電車に乗って車掌から切符を買い、下りるときには手渡さなければならない。赤く塗った柱のある停留所で電車は止まる。停車する前に車掌は次の停留所の名を告げ、下りる人がいるかどうかを尋ねる。誰も答えなければその停留所は通過していく。時折、慌てることなく乗車と下車をするようにと注意を促す。道端にはところどころに小さな小屋のようなものがあって、警官が駐在している。道などを尋ねると教えてくれる。日本の警官は刀を帯びている。警官たちは威張ったり嫌がらせをしたりすることなく、治安を守り、誰に対しても礼儀正しい。また電話をかけるための小さな建物がそこかしこにあって、5パイサで5 分間電話をかけることができる。

 ……ある女学校に見学に行く。女性の教師が案内をしてくれた。英国に行ったことがあるという人で、立派な学歴の持ち主で、英語もかなりのものである。2~3時間あちこち見学してまわった。豊かな生活を手にいれて人間らしい人間となり、子どもたちと国の民をきちんと育て上げるために必要な教育のあらゆる機会がここには揃っているように思われる。この学校では化学、植物学、地学、生理学などカレッジで学ぶような程度の高い科目から、料理、洗濯、掃除の仕方、ちょっとした庭仕事、裁縫、音楽、美術、道徳、英語などが教えられている。小さい子どもたちは教科書を使わない。紙を切ったり、絵を描いたり、土をこねて何かを作ったり、またためになる話しを聞くなど、いろいろな方法で教育が行なわれる。粘土で富士山や隅田川を作ったりして地理の授業が進められる。節をつけて歌を歌うようにして大きな町の主な場所の名を覚える授業もある。子どもたちが粘土でこしらえた作品や描いた絵を見ると感心するばかりだ。
 あるクラスでは3~4才の子どもたちが紙と筆で絵を描いていた。その小さな手が作り出す作品は一見の価値がある。一方では庭で勉強している生徒たちもいる。別の所では女学生たちが化学について議論している。ガラスのパイプにガスを入れたり抜いたりしての学習である。生徒たちは礼儀作法、失礼のない話し方、控えめに振る舞うこと、目上を敬うことなどを教えられる。日本人同士が互いを敬って話すところを見ればその礼儀正しさがよく分かる。例えば子どもたちは、朝起きると父母に対して、またお互い同士で頭を下げて朝の挨拶をする。寝る時や他の時でもこうした挨拶をする。ただし挨拶の言葉はその都度異なる。近所の人と会えば挨拶をする。誰かが訪ねて来れば膝を折った姿勢で丁寧に迎える。自分がへりくだることで礼儀正しさを表わすのだ。何を言う時にも感謝の言葉を添えていると言えるほどだ。何か恩恵をこうむれば頭を下げて感謝の気持ちを表わす。話す時にはあくまでへりくだって相手を敬う。別れに際して挨拶をすれば、またおいでくださいという言葉を添えて別れの挨拶が返ってくる。
 日本では男女とも字を知らない人は極めて稀である。政府の努力により、誰もが8歳になれば学校に行かなければならない。それ以前はほとんどの場合、母親が子どもたちを教育している。……
 日本人は自分を高めるためには、どんなに卑しいとされる仕事も厭わない。ある新聞で読んだ話だが、日本の大学で勉強中のインド人の学生が、ある日帰宅途中で雨に降られて濡れながら歩いていたところ、人力車が寄ってきて乗っていくかどうかを尋ねた。何とその人力車夫は学生の日本人の同級生だった。それに気づいてインド人学生が何か言おうとすると、同級生はそれを制し、「俺はただの俥引きだ。それ以上言うことはない。」と言い、インド人が乗りそうにもないと見ると他の客を捜しに立ち去って行ったという。このようなことは日本ではめずらしくない。学生たちは休みともなれば俥を借りてきて引いたり、魚や野菜を配達してまわったりする。(この国では、どんなものでも注文を受けて届けるようになっている。)どの学生も機会さえあればこうした仕事をしている。……

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 女性たちが夫とともに野良で働く姿を頻繁に目にする。市場、店、駅、郵便局、どこでも女たちが働いている。人出で賑わう盛り場でも、女性たちが仕切っている。見世物小屋の切符売りは女である。この国では女を縛るものはなく、女たちは男たちと一緒に働き、行動する。そうすることに何の障害もないし、躊躇もしない。

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 ……そもそも日本では誰も裸でいたり裸足だったりすることはない。服装はずいぶん洗練されている。しかし、入浴の時だけは、公共の浴場でも皆一斉に裸になって入浴することを恥ずかしがらない。それどころか、下男に1~2パイサやって体を洗ってもらうことまでする。清潔さに細かく気を使うことで、健康を維持するのだ。

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 日本では誕生や死に際しては祈祷などの宗教行事が行なわれるが、結婚の時にはそういったものは一切ない。これは日本人が結婚というものを肉体的な結び付きと考えているためだ。だから結婚の際には、これを楽しめばいいのであって、他に精神的な行事を執り行う必要はないというわけだ。だが時折、夫に先立たれた妻が腹を切って後を追うとか、髪を下ろして尼となり、夫の思い出に浸りつつ永遠の出会いを願う、といったことはある。……

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 日本には仏教と神道がある。今ではキリスト教の信者も多い。仏教は全くブッダの開いた宗教そのままというわけではない。誰もが神道の影響を受けている。他界した偉人、英雄、霊魂を日本人は神として祭っている。こうした人たちは危機や困難、あるいは戦争の際に味方となって助けてくれる。日本人は天皇を神として崇めている。戦争などの困難な時、天皇の聖なる力とその優れた資質、それにあの世に住む霊魂たちの祝福と手助けによって、その困難を乗り切ることができると日本人は考えている。
 亡くなった英傑のための祭りが盛大に催される。これを「ショーコンシャ」と言う。男神、女神を祭った神社もある。仏教徒、神道の信者を問わずお参りをする。亡くなった人たちへの敬愛、天皇への尊崇、自国への愛、仕事への献身、これが日本の宗教だ。……

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 この国の人たちの、私へのもてなしぶりには驚くしかない。義母を始め親戚の人たちは、私が辛い思いをしないようにと常に気を配ってくれていた。私のことはすべて姑がやってくれた。私が井戸の所でちょっと水を汲んだり、衣類を洗おうとしたりしていると、義母が奪い取るようにしてその仕事をすませてしまう。私が困ります、と言えば「この寒さに辛かろうし、病気にかかってしまうから」という答えが返ってくる。もう60才になるのに、私などが2~3人かかってもかなわないほどの量の仕事をこなす。……私が外国人だからと忌み嫌ったりするどころか、私が楽しめるようにと皆が常に気を使ってくれていた。婚家ばかりでなく、どこかに招かれて、あるいは用事があって行った時でも必ず、外国人ということで皆が私を見に来たし、私の国のことを熱心に聞きたがった。私たちをどうやってもてなすか、なかなかまとまらなかったということだった。できる限りのことはしたのだけれど、きっと辛い思いをしたり不便をかこったりしているのだろうね、何とも申し訳ない、と謝られたりした。ともかく、この人たちの外国人へのあたたかい心配りには、感嘆せずにはいられない。……
 ……法事の前に知らせが回されたので、おおぜいの人が特に私を見にやって来た。あまりにもたくさんの人が集まったので、法事の後寄付を募ったところ、それぞれが出したのは少しずつでも、合わせると15~6円(23~24ルピー。1.5ルピーで1円)にもなった。このお金はお寺に寄進された。皆が私を見たがったせいでできた人だかりの中にいるのが辛くなったのだが、義弟がそれに気づいて、人垣を押しのけて私を家の中に引っぱって行き、部屋の戸を閉めて人目から閉ざしてくれるという一幕もあった。それでも私をぜひ見たいという人たちが、2~3分でいいから姿をあらわすようにと言ってきた。これ以降、どこかで法事などする時には、人をたくさん集めるために私が招かれることがよくあった。外国人をめったに見ることのないこのような村や町では、道を歩くだけで大変な思いをした。なにしろ、無数の人が私を取り囲むように集まって来たのだ。

 


以下の文献から抜粋した。

ホリプロバ・タケダ(富井敬訳)
「あるベンガル婦人の日本訪問記」『遡河』第10号(1999年、遡河編集部)
「あるベンガル婦人の日本訪問記(続編)」『遡河』第13号(2002年、遡河編集部)
翻訳加筆修正:渡辺一弘