アートというのは、都会の中の解毒剤だと思うんです
養老孟司(解剖学者、東京大学名誉教授)
ヨコハマトリエンナーレ2017「島と星座とガラパゴス」
公開対話シリーズ「ヨコハマラウンド」ラウンド1
<0と1の間にあるアート>より
公開対話シリーズ「ヨコハマラウンド」第1回目は、解剖学者である養老孟司さんと、同じく解剖学者で美術批評家でもある布施英利さんをお迎えしました。
本ラウンドでは、現代社会の根底を暴きながら、アートの本質に迫る養老孟司さんのお話から始まり、後半では布施英利さんとの対談から、人間の想像力に宿るアートの可能性をひらきます。
現代は、0と1でできている、それは「コピーの世界」なんです
養老孟司:
現代は、0と1でできています。そういう世界が急激に立ち上がってしまいした。二進法というやつで、皆さんが普通に使っておられるスマホも、根本は全て0と1です。
去年、大きなニュースになりましたが、碁も将棋も、今はコンピュータが人間に勝ってしまう。でも、それは当たり前のことで、「100メートル競走をオートバイとやる奴がいるか」って僕はよく言うんです。コンピュータというのは論理計算が入る専門の機械ですから、人間と競争しても意味がない。 同じく去年、『人間さまお断り』(ジェリー・カプラン(著)、安原和見(翻訳)三省堂)という、将来、コンピュータが人の作業をどれくらい置き換えていくかを予測した本が出ました。こうした時代の根本にあるのが、0と1です。
じゃあ、アートって何だろう?と考えてみましょう。 アートというと、例えば《モナリザ》。今の技術ですと、この《モナリザ》を完全に復元することは、多分できると思います。けれども、皆さんは、それはアートとは違うんじゃないの?と思うでしょう。そういうものを普通は「コピー」と言いますね。
0と1の世界は何かというと、コピーの世界なんです。僕らが若い頃使っていたコピーは、青焼きを使っていてそっくりじゃなかった。そのうちにゼロックスが出てきて、ちゃんとコピーができるようになるんですが、ガラス版の上に埃やゴミが乗っていると、それが写って完全に同じではないんです。
じゃあ、「完全に同じ」にするにはどうするんですかね?私は、その究極が0・1、つまりデジタルの世界だ、という意見です。スマホやパソコンの中の世界は、完全にコピーの世界です。間違いなく同じものがいくらでも作れる。なぜかというと、あの中は全てのものが0・1で書かれているからです。
現代人が持った最大の能力が「同じにする」こと。
感覚で捉えるか、意識の中に持ち込むかで「違う」と「同じ」が発生するんです。
そうすると、少し不審に思うのは、どうして人間はコピーを一生懸命に作るんだろう?ということです。アートは明らかにコピーじゃない。アートである大きな理由は、「たった1つのもの」ということです。
それで面白いなと思ったのは、SMAPの『世界に1つだけの花』。おかしいと思ったことはありません?私は、学生に言ったことがあるんです。「あんたね、世界に2つある花があったら、俺のところに持ってこい」って。物事って1つだけに決まっているんです。だけど、そう思ってないでしょう?
「同じものがいくつもある」というのと、「1つ1つのものが全部違う」というのは、一体どこでどう折り合わせたらいいんですかね? 実は、それは理屈じゃないんです。我々がしょっちゅうやっている働きなんです。
例えば、今、僕の目の前に皆さんがいますけど、座っている席がそれぞれ違いますし、一人一人違うに決まっているんです。それを、今度は頭の中に入れてまとめて言うと、「人」なんです。
つまり、違うものとして見るというのは、感覚です。感覚的に捉えると、全てのものは違う。当たり前だから普段はお考えにならないでしょうけど、私は、人間ってここまで乱暴なものかと思いました。みんな違うにもかかわらず、それを「人」として同じにするんです。私は、現代人が持った最大の能力が、この「同じにする」ことだと思うようになりました。
だから、動物には「同じ」がありません。例えば、うちの猫はマルといって、私も女房も娘も、「マル」と呼ぶんです。一応、こっちを向いて「ニャー」とか言います。誰が呼んでいるのか分かっているかというと、多分、分かっていない。あいつは私の声と、女房の声と、娘の声を聞き分けちゃうんです。
どこに違いがあるかというと、音の高さです。私の声は男の声ですから、低いですよね。女房や娘の声は高い。この音の高さ、周波数が先に聞こえちゃうんです。
これを絶対音感といって、実験で、動物には絶対音感があるということが分かっています。「マ」という音はなくて、最初に聞こえた音の高さを優先して、誰だか分かっちゃうということなんです。高さが違うんですから、同じにしようがないじゃないですか。
何が言いたいかというと、当たり前ですが、私たちも動物の感覚を持っています。それを、今度は頭の中に入れて、意識の中で操作します。その時に、人の意識だけがおそらく「同じ」という能力を備えるようになったんです。そう思うと、非常に多くのことが説明できると思います。
例えば、前の飼い猫は、真っ白だったので、シロという名前で、そいつに「おまえの名前を俺が書いて教えてやるから。おまえの名前は"白"だよ」って、こう「白」と書いてやって教えるんです。そしたら、猫はなんて言うか分かります? 怒るんです(笑)。黒いマジックで書いた文字を白だと言うのは、人間しかやらないことです。動物は、素直にマジックの文字を黒と見ます。
そこにアートとの関連があることがお分かりでしょう? 何となくありますね。アートは、感覚を中心にしています。だから作品は常にユニークなんです。
唯一であるか同じであるか、実は皆さん方が作っているんです。外の世界にそれがあるんじゃなくて、皆さん方が意識の中に持ち込んでしまうか、感覚のレベルで抑えておくかで「同じ」と「違う」が発生してきます。
「イコール」がわかると交換ができる。
お金を使うこと、相手の立場になれることは、人間社会の特徴です。
人間は、「同じ」という能力を持った時に何を始めたか。社会を作り出しました。 最初に皆さんが「同じ」ということを習う時は、3足す3は6と、「=(イコール)」という記号を使い、何の違和感もなく「=」を受け入れたでしょう。
中学になると方程式が入ってきて、方程式の解が「a=b」になったりする。このときに算数をやめちゃう子が、1000人に1人いるんです。どうしてかというと、「aはbじゃないだろう。a=bなら、明日からbという字はいらない。aと書けばいいだろう」って言うんです。
これができるのは、人だけです。感覚的に違うようにaとbという字をわざわざ作っておいて、挙句の果てにそれが「=」だと言うんです。こういうのを理不尽と言うんですが、みなさん素直に受け入れたでしょう。人だからです。
そうすると、とんでもないことができる。b=aです。これは「交換の法則」といって、数学基礎論にちゃんとある。皆さんは、「a=bなら、b=aに決まっているだろう」って思うでしょう。これが、まさに感覚から離陸するところです。感覚で捉えたらa=bとb=aは違うんです。だって、式が違うもん。
だけど頭の中に入りますと、これは「=」になるんです。我々は何気なくやっていますが、「=」という能力がないとできないことなんです。
「=」がわかると、日常的にまた凄いことをする。等価交換です。それが「お金」じゃないですか。
もう1つ、人間社会の大きな特徴があります。それは、認知学者が「心の理論」と呼ぶものです。アメリカ人の研究者が自分の子供が生まれた時に、チンパンジーの新生児を探してきて、一緒に育てたんです。なんと3歳ぐらいまではチンパンジーの発育の方がはるかにいいんですが、問題は4歳ぐらいから。人はどんどん育つのですが、チンパンジーは育ちません。
その理由が、「心の理論」といわれるものです。何かというと、AとBの箱が2つあり、お姉ちゃんがきて人形をAの箱に入れて蓋をして行ってしまう。次にお母さんがきて、Aの箱に入っていた人形をBの箱に入れ替えて行ってしまう。そこへお姉ちゃんが戻ってくるんです。その段階で、見ている子供に質問をします。「戻ってきたお姉ちゃんは、人形を取るのにどっちの箱を開けるでしょう?」と聞くんです。
3歳児は、「Bを開ける」というんです。5歳になると、ちゃんとAの箱を開けると正解するんです。5歳児は、お姉ちゃんはお母さんが人形を入れ替えるのを見ていなかったから、お姉さんの立場なら自分が入れたAを開けるだろうと推論するんです。これが「心の理論」です。
相手の立場に立つということは、自分と相手を交換しているということです。その根本には、自分と相手は同じだということがあります。
これで人間の社会の説明は終わりです。民主主義ってこういうことです。平等と言うけれど、平等なわけがない。年寄りも若い人も、お金持ちも貧乏人も、いろいろいるんだけど、人間は、なぜか最終的に平等と言いだすんです。頭で考えたら人間は平等です。感覚で捉えたら、人は皆違います。
「同じ」にすることが、人間が持った非常に強い無意識のモチベーションなんです
マレーシアに1人で行って、キャメロンハイランドという山奥の町に立ち寄ったら、なんとそこにスターバックスがあったんです。驚いたのは、コーヒーの値段が東京と同じ。スターバックスは世界中どこにでも店を出し、同じコーヒーを同じ値段で売っているわけです。
グローバリゼーションとは何か。どこへ行っても何もかも「同じ」にするということです。
おそらく、都市ができた時に必ずアートが出てくるんですが、私は、アートというのは、「同じ」であることの解毒剤になっているんじゃないかという気がするんです。 都市がどのくらい同じかというと、あるテレビ局が、外国人に東京の街を歩かせてインタビューし、ニューヨークの街頭インタビューだと流したら、視聴者はすっかりそう思い込んでしまった。要するに、適当な角度で撮っていれば、ニューヨークだろうが、東京だろうが変わりない。横浜でも大丈夫だと思います。都市って、そういう所なんです。
また、なぜ、テレビがデジタルテレビに変わったのかというと、これもグローバリゼーションを進めていく理論と全く同じです。デジタルならば、全く間違いのないコピーを作ることができるからです。
この「同じ」にしていくことが、人間になった時に持った非常に強い無意識のモチベーションなんですね。だからこれを「進歩」と呼んできたし、一方では「グローバリゼーション」と呼んだ。それが行きついた先がコンピュータの世界です。
コンピュータの世界がなぜいいかというと、全て0・1で書ける。数字は2つしか覚える必要がないからです。それが進歩であり、合理的であり、経済的であり、効率的であると言ってきました。それは当たり前で、そういう風に世界を作っているんですから。
理屈を徹底的に煮詰めていったらアートがこぼれ出てきた。
アートは、0と1の間だなと思ったんです
そこで一番困るのは、人間に戻った瞬間です。なぜなら皆さん方は一人一人違っていて、世界に1つだけの花なんです。「1つだけの花なのに、なんでコピーばかり使っているの?」と、こういう話になるわけです。
じゃあ、と個性を発揮しようとすると周りが迷惑でしょ。人間というのは面白いです。自分でいろいろやってジタバタしている。
アートを考えようとした時に、おそらく多くの方が、アートというのは、皆さんが観ている相手だ、絵なら絵だというふうに思っているかもしれませんが、そうじゃない。
絵を観ている皆さん方に、アートであるかないかがあるわけです。物事をユニークなものとして見る。まさに一期一会です。止まってはアートにならない。人生にならないんです。
私はアートって、あまり関心がなかった。なぜかと言うと、こうやって理屈を言う人間ですから「アートって理屈にならんな」と思っていて、理屈にならないものを理屈でやってもしょうがないですから。
でも、なんと理屈を徹底的に煮詰めていったら、いつの間にかアートがこぼれ出してきたという感じです。それで、アートというのは0・1じゃなくて、0と1の間だなというふうに思ったんです。
まだピンと来ない人のために少し言いますと、実は、0・1は、私に言わせると脳みそなんです。
皆さん方は脳みそを見たことがないでしょうが、原理は簡単で神経細胞がつながっているだけです。そして神経細胞の状態は1であれば興奮しているし、0であれば休んでいる。これだけのことなのですが、1個1個の細胞に注目すると、99.9%まで興奮しそうになっている細胞から、0.000%の興奮の確率しかないという細胞まで分かれちゃうんです。ただし、回路として機能するためには、0・1の仕事になる。
つまり、コンピュータというのは、われわれの脳みそを真似して作っているんですね。ですから、理屈できちんと物を考えて、決まった手続きでやることは、いずれコンピュータに必ず置き換えるんです。人間の立ち入る世界ではもうありません。
僕は面白い時代になったなと思っていまして、古くは肉体労働者が機械に置き換えられていったんです。そのうち今度は、こうした論理計算をやる仕事はコンピュータに置き換えられていく。昔から手続き通りにきちんとやることを官僚的と言いますけれど、コンピュータがあれば官僚機構はいりませんよね。
じゃあ、皆さん方は、そういう世界で何をするんだ?という話です。
人間はなんで生きるか、どういうふうに生きるかということです。僕らが若いころですと、「青臭い話で、若いもんだからそんなことを考えるのであって、大人は忙しくてそんなことを考えている暇はないよ」と言われたものですが、なんと今、もう一度それを考える時代になったのが面白いと、私は思っています。
都会の中の解毒剤としてアートは存在しているのかと、この年になって思いました
そうなるとアートの位置が違ってくるんです。アートは今言ったように感覚ですから。感覚の作用って千差万別です。
これは科学の中にもあって、ピサの斜塔でやったガリレオの実験です。ガリレオは何をしたんですか? 科学の人は「実験」とよく言うんだけど、私はそう言いません。あれは感覚に訴えたんです。だって、具体的に球を落として見ていたから。「ほら、一緒に落ちるじゃん、見てごらん」と言っています。実証じゃないです。感覚で見ているんです。
理屈で、頭の中で考えると、「そりゃあ重いほうが先に落ちるだろう」、という話になる。ですから、科学というのは感覚に訴えることによって頭の中の世界を訂正していくんです。 その頭の中の世界って、ガリレオの時代にはどこにあったかというと、教会なんです。もう何百年も頭のいい坊さんたちがさんざん議論しているんですから、論理としては精密なようですが、感覚に訴えてみるとそうでしょう? だから、感覚のほうが強いというのが経験科学、実証的な科学ということになるんだけど、私がイタリアに行って面白いと言ったのは、イエズス会の教会です。
イグナチオ教会の真ん中の天井を見ますと、きれいにドームが見えるんです。このドームはだまし絵なんです。どう見たって、下から天井を見ると丸天井です。だけど、実際には平らなんです。面白いでしょう!
科学が感覚を中心にして教会に反旗を翻し、科学のほうが進んでいこうとする時代に、今度は教会が何をしたかと言うと、天井にだまし絵を描いたんです。「感覚はあてになりませんよ」と。丁々発止で、なかなか両方やるなあと思いました。
どちらも人がやることですから、どっちが正しいとか正しくないという考え方は、私は取りません。われわれは感覚も持っているし、同じという意識も持っています。そのバランスの上で生きているんです。
だから文明と言うんですけれども、文明は普通、「都市」という形で出てきますが、文明が進んでくると、必ず技術が発達します。
文明とは何か、私に言わせれば「同じ」という世界です。「同じ」という世界がどんどん進んでくると、しょうがないから都会の中の解毒剤としてはアートが一番いい。そういうわけでアートが存在しているのかと、私はやっと最近、この年になって思いました。
自然が解いた答えは1つとは限らない。
それを見ると、自然は美しいと思うんです。
具体的なものをお見せしたいんですけど、これ、なんだと思います? 実は、トビケラという虫が作った巣です。そこら辺にあるあり合わせの材料を拾ってきて作るんですけど、見事なもんでしょう? 私はこれを見て「ああ、モダンアートだよ」と思った。こんな石の置き方。びっくりしません? 何気ないけど、何かルールがある。同じ種類の虫が作ったって、同じ巣はないんです。すばらしいアーティストじゃありません? 意外にわざとらしくないんです。
僕が最初にこういうことを考えるようになったのは、やっぱりある程度の年になってからです。
ある時、保育園で、園児のお母さんが作ったバラの造花が飾られていたのを目にしたことがあるんです。見事な出来で、最初、私は造花だと思わなかった。ところが、葉っぱを見た瞬間に造花だと分かりました。なぜかというと、人間が作るものはどこか嘘くさいんです。
それで、葉っぱは、どういうルールで並んでいるんだろうと考えたんです。葉っぱって1本の木にいろいろな向きで付いているじゃないですか。お日様って一瞬たりとも止まっていませんから、あれは、1日の間に最大限の光を受けるためにはどう並べるのがよいのかという問題を解いた結果のかたちだと思うんです。
そうすると、解いた答えは1つとは限らないんです。限らないんですけれど、そうしたルールが自然の中には必ず通っている。われわれは何億年も前から自然を見ていますから、そういうルールがあるところを自ずと見ちゃっているんだと思うんです。それを見ると、自然のものは美しいな、と思うんです。
ヨコハマトリエンナーレ2017
公開対話シリーズ・ヨコハマラウンド
ラウンド1 <0と1の間にあるアート>
2017年1月15日(日)14:00-16:00
横浜美術館レクチャーホール
登壇者:
養老孟司
(解剖学者、東京大学名誉教授、ヨコハマトリエンナーレ2017構想会議メンバー)
布施英利
(美術評論家、解剖学者)