コンセプト

第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」

リウ・ディン(劉鼎)、キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)

第8回横浜トリエンナーレのテーマを「野草」にしようと考えたのは2021年の終わりでした。ちょうど世界が新型コロナウイルスのパンデミックから脱け出し、再び動き出し、つながり始めたころのことです。世界が回復に向かい始めたこの時期に、第8回横浜トリエンナーレの準備は、数多ある国際展のなかで新機軸を打ち出すという志とともに始まりました。この野⼼的かつ勇気ある取り組みは、わたしたちにとって希望の光となりました。なぜなら、その光は、パンデミック、気候変動、ナショナリズムや権威主義への傾倒、ロシアによるウクライナ侵略、陰謀論の流布などがもたらした荒廃、絶望、そして、深い危機感を背景に放たれていたからです。そこで、わたしたちは個々⼈の⼈間性、それぞれの勇気、再⽣⼒、信念、そして連帯をあらわすテーマを考えるに⾄りました。

「野草:いま、ここで⽣きてる」というテーマは、中国の⼩説家である魯迅(1881〜1936年)が中国史の激動期にあたる1924年から1926年にかけて執筆した詩集『野草』(1927年刊⾏)に由来します。この詩集には、彼が中国で直⾯した個⼈と社会の現実が描かれています。魯迅が当時直⾯していた窮状と敗北感は、1911年に起きた⾟亥⾰命の経験にさかのぼります。⾟亥⾰命により、古い秩序を象徴する清朝は倒れ、代わりに新しい秩序が⽣まれました。それにもかかわらず、中国社会が根本的に変わることはありませんでした。この経験から、彼は希望ではなく、絶望を⾃分の⼈⽣と仕事、そして思考の出発点とすることとし、希望も野⼼もない、ただの闇、闇のみの世界を完全に受け⼊れるようになったのです。同時に、この完全なる暗闇のなかから出⼝を⾒つけることにも専念するようになります。魯迅は、20世紀中国の状況に絶えず反発する、極めて孤独な個⼈でしたが、世界の動きに⽬を配り、個⼈の運命と⼈間性について深く考える思想家でもありました。

「野草:いま、ここで⽣きてる」というテーマは、魯迅の世界観と⼈⽣に対する哲学に共感するものです。「野草」は荒野で⽬⽴たず、孤独で、頼るものが何もない、もろくて無防備な存在を思い起こさせるだけではありません。無秩序で抑えがたい、反抗的で⾃⼰中⼼的、いつでもひとりで闘う覚悟のある⽣命⼒をも象徴しています。さらにその命が最終的に到達する究極の状態はこの世に存在しません。あらゆる存在は、それ⾃体が別の存在をつなぐものであり、ある過程を⽰しているからです。したがって、勝利や失敗は関係なく、その存在は永遠に動き続ける状態に置かれています。どの存在も潜在的なメッセンジャーとして相互にはたらきかけ、仲介する関係にあります。ところで、この哲学的命題は抽象的な概念ではありません。むしろ、経験によって⽀えられた世界のなかに明らかに存在し、経験そのものを⽰しています。「野草」の⼈⽣哲学とは、個⼈の⽣命の抑えがたい⼒が、あらゆるシステム、規則、規制、⽀配や権⼒を超えて、尊厳ある存在へと⾼められます。それはまた、⾃由で主体的な意思をもった表現のモデルでもあるのです。

2019年に始まった新型コロナウイルスの急速な世界的広がりは、グローバル化がもたらした両⽴不能な⽭盾を考えるきっかけとなりました。パンデミックは、公衆衛⽣だけではなく、ほかの危機の表⾯化を促し、加速化させ、新たなものまで誘発しました。パンデミックの状況下では、地政学的、経済的、社会的な難題がからみ合い、20世紀の政治や社会の構造や仕組みに根ざした、古い⾔語と新しい歴史的条件の間に⽭盾があることを浮き彫りにしました。現代の世界秩序は、社会主義制度が衰退し、冷戦の終結を経て形成されたものです。今⽇、さまざまな政治体制が実際に直⾯している喫緊な課題は、それぞれの政治体制と社会形態との間に⽣じている断絶です。不公平な分配システムと寡頭制の経済的独占によって、社会の階級∕階層の絶え間ない分裂と固定化が進み、もはや個⼈は政治的なレベルで⾃分たちをあらわす表現を⾒つけることはできなくなっています。わたしたちは、この苦境から抜け出したいと願いながらも、既存の社会の論理と抑圧に囚われたままになっているのです。これらの経験は、⼈間がもろい存在であることを明らかにしただけではありません。20世紀の政治や社会の制度設計に限界があることを露呈させたのです。

政治的覇権主義、イデオロギー競争の激化、⽂明の衝突が混在する現代の世界は、その健全性がむしばまれ、破壊されつつあります。また、個⼈の存在が尊重される空間は、⼤きく損なわれ、妥協を強いられています。ゆえに、平等と⺠主主義のための闘いは、未だに有効であり、むしろ、緊急性が⾼まっているともいえるでしょう。したがって、成功者や権⼒者の歴史ではなく、歴史の深みのなかで、あるいは、現代社会のなかで、個⼈の存在意義をいま⼀度肯定することが倫理の原則となるでしょう。ふつうの⼈々と彼らの⽣活について知ることは、絶えず変化し複雑化する課題に対して、盤⽯な対策の提⽰を可能にします。ここでいう「個⼈」は、社会的事件に直⾯したとき当然のように道徳的責任から免除されるような、抽象的な概念であってはなりません。わたしたちは、ささやかに想像してみるのです。わたしたち誰しもが、個⼈を苦しめるシステムを密やかに解体しうる、社会の裂け⽬に⽣きるアウトサイダーであったらと。

第8回横浜トリエンナーレでは、20世紀初頭にさかのぼり、いくつかの歴史的な瞬間、できごと、⼈物、思想の動向などに注⽬したいと考えています。たとえば、1930年代初頭に共鳴し合った⽇本と中国の⽊版画運動、戦後、東アジア地域が⽂化的な復興を遂げるなかで⽣まれた作家たちの想像⼒、1960年代後半に広がった政治運動とそれを経て⾏われた近代への省察、1980年代に本格化したポストモダニズムにあらわれる批評精神と⾃由を希求するエネルギーなど。そのうえで、歴史の終焉が提唱された後に⽣まれたアナーキズムの実践や思想を糧に、個⼈と既存のルールや制度との対話の可能性を探ります。

本トリエンナーレでは、アートとその知的な世界に⽬を向け、アートがいまのわたしたちに積極的にかかわる⽅法を⾒出します。そして、アートの名のもとに、友情でつながる世界を想像します。そこでは、個⼈が国などの枠組みを越えてつながる⾏為(individualinternationalism)と個⼈が⽣きるなかで発する弱い信号とが結びつくような、そんな未来が開かれると信じています。

第8回横浜トリエンナーレアーティスティック・ディレクター
リウ・ディン(劉⿍)/キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)

アーティスティック・ディレクター

リウ・ディン(劉鼎)

アーティスト、キュレーター。1976年、江蘇省常州市生まれ、北京を拠点に活動。中国の近現代史における文化、芸術、政治の影響関係に関するリサーチをもとに、テキストや写真、インスタレーション、絵画、パフォーマンスなど様々なメディアによる作品制作のほか、執筆活動や、展覧会企画を行う。主な個展に「Reef: A prequel」(ボンネファンテン、マーストリヒト、2015年)。主な国際展出品に、釜山ビエンナーレ(2018年)、イスタンブール・ビエンナーレ(2015年)、ヴェネチア・ビエンナーレ中国館(2009年)。主なグループ展に「Discordant Harmony」(アート・ソンジェ・センター、ソウル、他巡回、2015-16年)。またテート(ロンドン)のオンライン・フェスティヴァル「BMW Performance Room 2015」などに参加。

キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)

美術史家、キュレーター。北京インサイドアウト美術館ディレクター。1977年、広東省潮州市生まれ、北京を拠点に活動。北京インサイドアウト美術館での主な展覧会企画に「Wang Youshen: Codes of Culture」(2022年)。2012-15年、OCAT(深圳)アーティスティック・ディレクター兼チーフ・キュレーター。光州ビエンナーレ(2012年)コ・アーティスティック・ディレクター。『Frieze』への寄稿のほか、審査員として「Tokyo Contemporary Art Award」(2019-22年)、「Hugo Boss Asia」(2019年)、「ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞」(2011年)などを歴任。2013年、テート・リサーチ・センターのアジア太平洋フェローシップ・プログラム客員研究員。

企画の特徴

2019年の終わりから、わたしたちの生、精神、身体、そして暮らしはずっと困難と試練にさらされてきました。コロナ禍は終息しつつあるものの、われわれはみな、これまで以上にはっきりと窮地に追いやられています。こうした状況の中、創造的な実践者として、わたしたちは、今ここで経験していることを芸術的な手段で表現する必要性を感じています。
今回の横浜トリエンナーレでは、小説家、魯迅が著した詩集『野草』(1927年刊行)を今日的な形で取り上げたいと考え、アーティスト、思想家、研究者や社会活動家と一緒に展覧会の準備を進めることにしました。アーティストと仕事をするにあたっては、中国と日本の美術史に関する知識と、世界の現代美術に関する知見を共に駆使しました。こうして、それぞれの地域の現実と歴史に深く関わることで力強い表現を生み出すアーティストたちを選び出し、彼らとの協働作業を進めることになりました。既存の作品はもちろんのこと、何人かのアーティストには、わたしたちのテーマに共鳴しつつ独自の視点を取り入れた新作の制作を依頼しています。これらの作品が、今日の複雑な世界の現実を映し出す鏡となることを願っています。

第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」は、3つの主会場のほか、まちなかの会場でも展開します。
主会場の一つである横浜美術館の展示は、キャンプ場を拡張したような景色が広がる第1章「いま、ここで生きてる(Our Lives)」から始まります。この章では、普段は見えにくい、しかしわたしたちの暮らしに深くかかわる非日常――避難、亡命、放浪、抗議、戦争、そして災害の後やしあわせな再会など――を、視覚的な序章として示します。
ここに立ち現れるのは、世界の多くの人びとの実際の暮らしであり、すべてわたしたちの生活とパラレルに存在する社会的な光景です。これらの光景は、誰もがいつでもその状況に置かれる可能性があること、つまり、非常事態や不確かな生こそが常態であって、決して異例ではないことを、わたしたちに教えています。
これはある意味、哲学的な仮説を示すことなのかもしれません。しかし、これこそがわたしたちの生活に通底する現実にほかならないことを認識すべきでしょう。この章は展覧会全体の基調を定めています。ここでわたしたちは、危機に瀕した世界を直視し、絶望に向き合う個々人の回復力と主体性に目を留めることで、数々の課題と、無秩序に横溢する生命の力とが絡み合う光景を作り出すことになるでしょう。

またこの章では、横浜美術館の建物の中心を占めるグランドギャラリーの真ん中に、『日々を生きるための手引集(Directory of Life)』を読むことのできるテーブルを設置します。わたしたちが編んだこの『手引集』には、2000年以降、アーティストや思想家、社会活動家たちがそれぞれの時代、歴史、生活について考えたテキストが収められています。ここで著者たちは、日常に潜む政治的、知的、文化的活力の存在を明らかにしています。紹介される実践やアイデアは、一定の歴史的条件下で生きるわたしたちにユートピアを想像する余地を与えてくれます。また、暮らしの中の些細なことから、今の状況全体を変えうる関係性や非関係性、またコミュニケーションの可能性や不可能性を見出す術を教えてくれます。わたしたちは、これらの言葉が来場者の心に行動を呼びかけ、希望の種を蒔くことを望んでいます。

こうして、わたしたちの暮らしの現状を描き出す「いま、ここで生きてる(Our Lives)」の章に始まる展示は、「わたしの解放(My Liberation)」と「すべての河(All the Rivers)」の章へと進みます。これらの章では、制約の多い制度の中で個人の領域を最大限に広げようとする主体的な想像力、働きかけ、行動に注目します。残る3つの章「流れと岩(Streams and Rocks)」、「鏡との対話(Dialogue with the Mirror)」、「密林の火(Fires in the Woods)」では、若さや自己の目覚め、生の亀裂などによって立ち現れる生命の力に注目し、引き続き個人の領域の拡張について考えます。最後となる「苦悶の象徴(Symbol of Depression)の章は、「いま、ここで生きてる(Our Lives)」に呼応する形で、近代に対する深い批評をあらわします。


展覧会全体を通してわたしたちは、芸術と現実世界の関係や、アートの実践者が息長く、批判的に暮らしや社会に関わることの重要性について問い続けます。これは、資本と産業の論理が芸術の世界を覆い尽くし、その知的能力や批評的主体性を危機に陥れていることに対する、一種の批判的な応答なのです。
トリエンナーレをつくり上げるプロセスは、複数の視点を織り交ぜて進む交響曲の作曲に似ています。
わたしたちは一方で、東アジアの近代史において精神的に、また実践的に自己をつくりあげようとした人びとの事例を紹介します。これにより来場者に刺激を与え、現在の暮らしの中で自らも主体性を見出したいと感じるきっかけをつくります。
もう一方でわたしたちは、今の時代と対峙し、この世界に変化をもたらすためには個々人がその主体性を取り戻すことが急務である旨を明らかにします。このため、今日の文化的、政治的情勢について個人の視点から考察する数々の作品を紹介します。特に2010年以降、近代が陥った窮地から人びとを救う役割を果たした東アジアの活動家たちの理論や実践を取り上げます。
以上のさまざまな視点は、現在の暮らしの中で常に規制され、抑圧され、弱体化を余儀なくされる個々人の現状に目を向け、そこから自己を解放するために掲げられるものです。これらを通してわたしたちは、既存のシステムによって定められた生き方の先にある別の生き方を積極的に見つけ出そうと来場者に呼びかけます。すでにある境界線や制約、既定路線の外側にある世界を思考し、探求するよう、人びとを後押ししたいのです。

このように本トリエンナーレは、歴史的な事例と現代の実践の両方を紹介します。個人がどのように主体性と力を発揮し、イデオロギーの境界や国境を超えて友情を育んでいけるか。また、今を生きる人びとの暮らしを中心に据えて世界を構築することはいかにして可能なのか。わたしたちはこのトリエンナーレを、こうした問いについて来場者と共に考える機会にしたいと思っています。
個人の主体性を重視することは、集団(コレクティヴ)の意義を否定することではありません。それは、能動的な個々の主体が一種の群衆(マルチチュード)のように集まって力を発揮することにつながっているのです。

日々を生きるための手引集
(Directory of Life)

本手引集には2000年以降、アーティストや思想家、社会活動家たちがそれぞれの時代、歴史、生活について考えたテキストが収められています。「連帯する思想家たち(Fellow Thinkers)」である10組の著者は、生きるヒントとなるテキスト(Sources)を提供します。

  1. 柄谷行人(著)『NAM―原理』(2000年)
  2. 汪暉(著)『世界史のなかの世界――文明の対話、政治の終焉、システムを越えた社会』(中国語初版2011年/日本語版2016年)
  3. デヴィッド・グレーバー(著)「ブルシット・ジョブ現象について」(英語初版2013年/日本語版2019年]
  4. ジュディス・バトラー(著)『アセンブリ:行為遂行性・複数性・政治』(英語初版2015年/日本語版2018年)
  5. ビョーク&ティモシー・モートン(共著)「ビョークとティモシー・モートンの往復書簡」(英語初版2015年/日本語版2024年)
  6. 松本哉(著)『世界マヌケ反乱の手引書:ふざけた場所の作り方』(2016年)
  7. マッケンジー・ワーク(著)『資本は死んだ』(英語初版2019 年/日本語版2023年)
  8. 斎藤幸平(著)『人新世の「資本論」』(2020年)
  9. 匿名(著)「寝そべり主義宣言」(中国語版2021年/日本語版2022年)
  10. インゴ・ニアマン&エリック・ニードリング(共著)「ヴァルダー・ダイエット 」(日英ともに2024年書き下ろし)

※初版年順

考える仲間たち
(Thinking Partners)

アーティスティック・ディレクターと共に特定のトピックを深く研究する専門家たちです。

江上賢一郎(東京藝術大学 特任助教)
萩原弘子(大阪府立大学 名誉教授)
町村悠香(町田市立国際版画美術館 学芸員)
王欽(東京大学大学院総合文化研究科准教)
山本浩貴(金沢美術工芸大学講師)

※姓のアルファベット順

章立て

「いま、ここで生きてる(Our Lives)」
「わたしの解放(My Liberation)」
「すべての河(All the Rivers)」
「流れと岩(Streams and Rocks)」
「鏡との対話(Dialogue with the Mirror)」
「密林の火(Fires in the Woods)」
「苦悶の象徴(Symbol of Depression)」

空間設計

nmstudio一級建築士事務所 + HIGURE17-15cas

ビジュアル・デザイン

REFLECTA, Inc.(岡﨑真理子+田岡美紗子+田中ヴェートリ美南海+邵琪)

章の解説

「野草:いま、ここで生きてる」展は、次の7つの章で構成されます。展示の順路で章をご紹介します。
いま、ここで生きてる(Our Lives)
わたしの解放(My Liberation)
すべての河(All the Rivers)
流れと岩(Streams and Rocks)
鏡との対話(Dialogue with the Mirror)
密林の火(Fires in the Woods)
苦悶の象徴(Symbol of Depression)

いま、ここで生きてる

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:冨田了平
サンドラ・ムジンガ《そして、私の体はあなたのすべてを抱きかかえた》2024年/ピッパ・ガーナー《ヒトの原型》 2020年、Courtesy of the Artist and STARS, Los Angeles

展覧会の冒頭を飾るこの大きなスペースは、どこかキャンプを思わせます。自然に囲まれた楽しいキャンプ場のようにも、また人びとが身を寄せ合う難民キャンプのようにも見えます。

災害や戦争に巻き込まれ、避難し、逃亡し、さまよう――こうした「非常事態」は、わたしたちの日常のすぐそばにあります。実際、無数の人びとが難民キャンプをはじめとする厳しい環境のもとで暮らしています。ふだん意識せず何気なく日々を送るわたしたちにも、予期せぬ異常な事態がいつ訪れるかわかりません。

この章でご紹介するアーティストたちの作品は、こうした危機を象徴的に表しています。これらはわたしたちに、いつか来る非常事態を想像するための手がかりを与えてくれます。しかしまた、 生の安全がおびやかされ、「生き延びたい」と願うこんなときこそ、わたしたちの創造の力が刺激され、生きることの可能性が大きく開かれるのかもしれません。

中央のテーブルには「日々を生きるための手引集」が置かれています。アーティスト、思想家、社会活動家などがいまの時代や歴史、生について書いた、2000年代以降の文章を集めたものです。そこには、傍観せずにまずは実践しようという呼びかけがあります。

密林の火

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:冨田了平
浜口タカシ、『大学闘争 70年安保へ』より、横浜美術館/厨川白村《『象牙の塔を出て』より》1920年刊行/勅使河原蒼風《題不詳》1963年、一般財団法人草月会/トマス・ラファ《Video V65:極右主義者の難民反対デモ》2016年、Courtesy of Tomas Rafa/ジョシュ・クライン《長年の勤務に感謝(ジョアン/弁護士)》(前)《総仕上げ(トム/管理職)》(奥)2016年、Fondazione Sandretto Re Rebaudengo/ポープ・L《グレート・ホワイト・ウェイ、22マイル、5年、1本の道(第1区間:2001年12月29日)》2001年-2006年/2024年、Courtesy of the Artist and Mitchell-Innes & Nash, New York

この章では、いま現在の姿を映し出すものとして過去の歴史をとらえます。そして、まるで火打石を打ちつけたときのように激しく火花が飛び散った歴史上の瞬間を現在によみがえらせます。

飛び散る火や火花とは、紛争や対立、衝突や事件のたとえです。この部屋には、そのような歴史的な出来事をふり返る作品と、こんにちの課題に向き合う作品を一緒に並べてあります。すると、過去と現在が混じり合って時代の違いが消え失せます。代わって、人びとの苦しみとそれに立ち向かう行為とが、生きることの本質として浮かび上がってきます。

この章の作品は、もちろんそれぞれに異なるアーティストが創造したものです。しかしそれらはまた、アーティストたちが人類に共通する視点をもって現実に反応した結果、生み出されたもので もあります。だからこそこれらの作品は、個々のアーティストが生きた時間と空間を飛び超えて、今を生きるわたしたちのうちに共感と共鳴を呼び起こします。

わたしの解放

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:冨田了平
富山妙子

この章はギャラリー2とギャラリー5の2室による2部構成です。タイトルは、日本のアーティスト、富山妙子の自伝的エッセイ『わたしの解放 辺境と底辺の旅』(1972年刊)に由来します。

ギャラリー5では、その富山妙子の創作の軌跡をふり返ります。
富山は、日本の植民地だった旧満洲で育ち、画家を目指して東京に出ました。しかし日中戦争が拡大し、若い日々を戦禍のなかで過ごしました。戦争の悲惨さと戦後の食糧難による飢えの経 験を経て、やがて鉱山や炭鉱の労働者をテーマとする絵画の制作を始めます。1960年代初頭、労働争議に敗れた彼らが南米に移住すると、富山も彼らを追って中南米を旅します。その後、旧ソヴィエト連邦、ヨーロッパ、中東、インド、韓国などを訪れる中で、世界に広がる不平等、不公平をはっきりと認識します。富山は、アーティストおよび社会活動家としての実践を通して、アジア諸国に対して日本が担うべき役割をひとりの個人として引き受けようとします。

歴史上の大きな問題を自分の責任において受け止めること。こうした態度が、ただ考えるのではなく、行動することを可能にします。これは「わたしの解放」の章を通じて重要なテーマです。

流れと岩

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:加藤甫
ノーム・クレイセン、トレイボーラン・リンド・マウロン

この章では、進む力とはばむ力がぶつかるところに生命力がほとばしるさまをご紹介します。

小川とは生命の絶え間ない活力であり、湧き上がる潜在的なエネルギーのようなもの。一方、岩とは困難、停滞であり、頑固に立ちはだかる問題のようなもの。流れは岩にぶつかることで行く手をはばまれ、同時にそこでエネルギーを生み出します。

前進を続ければ、岩はやがてなめらかに削られ、流れはまた次の岩にぶつかるでしょう。中断や行き詰まりは、意味の連続性を断ち切ることもあれば、新たな意味を生み出すこともあります。危機と回復はいつもとなり合わせ。この意味で「流れと岩」は、ごくふつうの人生のありようを描き出しているとも言えます。

この章では、強い生命力のしるしとして、無邪気さ、若さ、気ままさ、高揚感、爆発、欲望、 穏やかさ、平凡さ、忍耐力などに注目します。そして、それらの要素が歴史的な、また現代の問 題に力を及ぼすさまを考察します。決して枯れることのない若さは、困難に立ち向かう意志を生む源泉なのです。

苦悶の象徴

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:冨田了平
ピッパ・ガーナー《Un(tit)led(軍服のセルフポートレート)》1997年/2024年プリント、Courtesy of the Artist, STARS, Los Angeles

この章では100年ほど時をさかのぼります。タイトルは1900-1920年代に活動した日本の文筆家、厨川白村(くりやがわ・はくそん)の著作『苦悶の象徴』(1924年刊)から採りました。1924年、魯迅は詩集『野草』を執筆しながら、同時に白村のこの本を翻訳しました。この中で白村は次のように述べています。

「文芸は純然たる生命の表現だ。外界の抑圧強制から全く離れて、絶対自由の心境に立って 個性を表現しうる唯一の世界である。」*

しかし続けて白村は、この自由な創造は何の制限もないところからではなく、前進する力と抑えつける力がぶつかるところからこそ生まれ出る、と語ります。この意味で芸術とは、まさに「抑圧強制」と戦って生じる「苦悶の表現」なのです。思えばふたつの力のぶつかりあいは、芸術の創造に限らず、わたしたちが未来を切り開く力を生み出すための普遍的な条件なのかも知れません。

魯迅は1902年に日本に留学し、その後医学の道を捨てて文筆家になりました。帰国後、母国の人々に近代的な考えを広めるため、版画を用いた活動を展開しました。魯迅の版画コレクションには、ドイツの社会主義運動と共に歩んだ版画家、ケーテ・コルヴィッツの作品も含まれていました。

*厨川白村『苦悶の象徴』1924年、改造社

鏡との対話

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:加藤甫
オズギュル・カー《枝を持つ死人(『夜明け』より)》2023年、作家蔵/ラファエラ・クリスピーノ《We don’t want other worlds, we want mirrors(われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ)》2013年、作家蔵/アネタ・グシェコフスカ、『ママ』『飼いならされた動物』より、Courtesy of the Artist, Raster Gallery, Lyles and King Gallery

魯迅の詩集『野草』の中に不思議な一節があります。

「わが裏庭から、塀の外の二本の木が見える。一本の木は棗(なつめ)の木である。もう一本も棗の木である。」*

魯迅はなぜ「二本の棗の木がある」とはせずこんな書き方をしたのでしょう。同じ種類の木なのにふたつある。ひとつのものがふたつに分離して向かい合っているようだ。そんなことを考えたのでしょうか。

作品とはアーティストの精神的な自画像です。それはアーティストの姿を鏡のように映し出します。しかし同時に、ひとたび制作されると、作品は独立した存在としてアーティストの前に立ち現れます。

あるアーティストは歴史に入り込み、別のアーティストは自らを機械に変容させます。こうした行為を通して、アーティストたちは、自分の魂を見つめ、自身を知るための秘密の通路を探り出します。そのために用いられるのは、観察、スケッチ、誇張、想像、類推、置き換え、象徴化といった手法です。こうして、自分で創造した「自己」たる作品が同時に見知らぬ「他者」でもある、という分裂した状況が生まれます。

鏡に映った自分の姿と対話すること。これは、自分を深く知り、同時にまだ見ぬ新しい自分を創造することでもあるのです。

*魯迅(竹内好訳)『野草』、岩波文庫、1980年

わたしの解放

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:冨田了平
你哥影視社(ユア・ブラザーズ・フィルムメイキング・グループ)(スー・ユーシェン/蘇育賢、リァオ・シウフイ/廖修慧、ティエン・ゾンユエン/⽥倧源)《宿舎》2023年/2024年

この章はギャラリー2とギャラリー5の2室による2部構成です。タイトルは、日本のアーティスト、富山妙子の自伝的エッセイ『わたしの解放 辺境と底辺の旅』(1972年刊)に由来します。

ギャラリー2では、ウィーン在住のアーティスト、丹羽良徳によるビデオ・インスタレーションと、台湾の台南を拠点とするグループ、你哥影視社(ユア・ブラザーズ・フィルムメイキング・グループ)の新作《宿舎》(2023年 / 2024年)をご紹介します。

丹羽の作品は、資本主義の論理を大げさに強調し、あるいはあいまいにぼかして、その本質を暴こうとします。丹羽の作品に向き合うことで、わたしたちは、自分も市場経済をまわすしくみにうまく組み込まれていることに気づきます。個人と国家の関係もまた、国の秩序と利益を守ることを前提に結ばれています。わたしたちは、ここからどのように自分を解放することができるでしょうか。

你哥影視社の作品は、2018年、台湾の新北市にある寮で、100人以上のベトナム人女性労働者がストライキを起こし、その様子がインターネットを通じて世界中に拡散された、という出来事 に想を得ています。作品は、たくさんのワークショップやさまざまな職業の人びととのコラボレーションによりつくられました。

すべての河

第8回横浜トリエンナーレ展示風景、撮影:大野隆介
松本哉、インターアジア木版画マッピング・グループ、リャオ・シェンジェン&ホァン・イージェ/廖烜榛&黃奕捷

旧第一銀行横浜支店とBankART KAIKOの二会場にまたがるこの章のタイトルは、イスラエルの作家、ドリット・ラビニャンの小説『すべての河』(2014年刊)から採られています。イスラエルとパレスチナから来た二人の恋物語は、公的な出来事がいかに個人の人生を翻弄するかをわたしたちに教えてくれます。

旧第一銀行でご紹介するのは、この20年ほどの間に東アジアで活発化した、カフェや古着屋、低料金の宿泊所、印刷所やラジオ局を運営する人々の動きです。彼らは「自治」「助け合い」「反消費」といった理念を掲げ、資本主義の論理や支配的な社会秩序の及ばないスペースをつくって、日々の暮らしの中に社会を変えるきっかけをもたらそうとしています。また街頭に出て活動し、人と人とを結びつけ、新たなコミュニティを創造しようとします。

あわせて、道をはさんで向かいのBankART KAIKOでは、東西冷戦が終結した1990年代以降、世界が経済優先、弱者切り捨ての方向に進む中で、それに対抗しようとする人々の動きをご紹介します。

これらの実践はわたしたちに、想像力を通じて互いにつながり、革命が起こるのをただ待つのではなく、自ら日常のうちに革命的な行動を持ち込もうと呼びかけます。

すべての河

ピェ・ピョ・タット・ニョ《わたしたちの生の物語》2024年、撮影:大野隆介

BankART KAIKOと旧第一銀行横浜支店の二会場にまたがるこの章のタイトルは、イスラエルの作家、ドリット・ラビニャンの小説『すべての河(All the Rivers)』(2014年刊)から採られています。イスラエルとパレスチナから来た二人の恋物語は、公的な出来事がいかに個人の人生を翻弄するかをわたしたちに教えてくれます。

BankART KAIKOでは、1990年代以降、東西冷戦の終結にともなって世界が資本主義化する中で、それに対抗しようとする人々の動きをご紹介します。

彼らは小さな空間の中で新しい社会関係をつくり出します。そして国籍、人種、宗教、言語の違いを超えてこのような空間同士の結びつきを生み出そうとします。それは、たくさんの小さな流れが合流して大きな川になるようすを思わせます。

こうした動きの背景には、社会主義の生みの親、カール・マルクスの著作を再読することで資本主義を超える道を探る、ジャック・デリダや柄谷行人といった思想家たちの試みを見ることがで きるでしょう。

あわせて、道をはさんで向かいの旧第一銀行横浜支店では、「自治」「助け合い」「反消費」といった理念を掲げてカフェや古着屋、宿泊所や印刷所を運営し、東アジアにネットワークを広げる人々の活動をご紹介しています。